凶器を楽器に持ち替えよう運動 その13

今回のテーマはライブハウスはライフハウス初めてのオーディション!!
です。
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とうとう怖いと恐れられていたEというLIVEハウスから連絡が来たのでチケットを取りに行くことにしました。
散歩がてら金山駅で降りて20分位歩いて緊張を解きほぐしながら大須にあるLIVEハウスへ向かいました。

その日もPAのYさんしかいなく無造作にチケットを渡されます。
「これ30枚ノルマ。1枚2100円。まずどれだけ売れるかやってみて。」
と一言。
オーディションの日も決まり身内というか友達にまずはチケットを売りました。
リーダーのN君がどうしてEというLIVEハウスを選んだのかが分かりました。
自分達の地元の鉄道からそのまま地下鉄に繋がり、乗り換えなしでLIVEハウスに行くことが出来るからでした。
駐車場も近くにはないことから電車での来場をお願いしました。

売れたのは10枚でした。
名古屋という距離の問題に直面しました。
その時感じたのは名古屋まで行って、このバンドのライブを見たいという期待感をどれだけ持たせることが出来るのか。
これは今でも人と会う時に気を付けている事なのですが、また会いたいと思ってくれる様にするにはどう生きたら良いかを考えさせられました。
ロックに生きているからこそ生き方をLIVEで曲で削り出すように生きる事を認識をN君と僕は持っていました。
N君はいつも言います命が削れるくらいの生き方をしないとロックスターにはなれない。
目指すのはロックスターでありロックヒーローなんだってずっと言っていました。

そしてオーディション当日。
土曜日のアマチュアバンドの演奏会的なイベントに出演させていただきました。

名古屋のバンドのレベルの高さにまず驚いたのとステージの狭さに驚きました。
しかしステージにリハーサルの時に立ってみて意識が180度変わりました。
半径50cmが以上に広く感じる事。
ステージから見た客席も広く感じる事。
一通りリハーサルを終えてメンバーと話していると気さくに
「初めまして〇〇ってバンドのギターやってます○○です!!今日はよろしくお願いします!!」
と挨拶に来てくれるではありませんか!!

ほぼ全部のバンドの方と挨拶を交わしましたが1バンドだけ何故か闘志剥き出しのバンドがいて挨拶に行くのも気が引けたので止めました。

後から分かる事なのですがそのバンドも当日レギュラーオーディションの日で僕達の事をライブハウスの人から聞いてライバル心を持ってライブに来たそうです。
それにしてもあの態度ないよね…
とバンドマンのねたみも初めて体験する事になります。

ライブが始まって感じたのは8バンド出て尺が30分入れ替えが5分なのですがお客さんが全てのバンドのメンバーより少ない…
そういう時はライブハウスは皆立ってジャンプしながら見てるというイメージがあったのですが、テーブル置いて椅子も用意して何だかもう喫茶店感丸出しの状態でした。

僕達は4番目に演奏する事になっていました。
そしてとうとう本番を迎える事になります。

次回は…名古屋の壁…をテーマに書いていきます!!
ご完読ありがとうございました。

凶器を楽器に持ち替えよう運動 その12

今回はバンドでプロになる!!をテーマに書いていきます。

初の主催ライブから数年経ち、友達もバンドもめまぐるしくその間は変わりました。
女性Voのバンドを組んでみたり、イエモンコピーバンドを組んでみたりほとんどが1回のみのパーマネントなバンドでした。

そんな時に以前出会っていた年上のマジ半端ないソングライティングをする人に出会いました。
今でいう斉藤和義さん的な独特の世界を感じさせる曲をソロで、その頃発売したばかりのデジタルMTRで音源を作りライブをしていました。

そしていつの間にか会社の人達とバンドを作ってLIVEしていました。
とにかくそのバンドに入りたくて僕が入れるレベルなのかを確認するためにLIVEチケットを買って様子を見に行きました。

結果はVoのN君だけが目立ってしまているワンマンバンドでした。
当時はミスチルスピッツといったハイトーンのVoが作詞作曲を全てするバンドが多かったですね。

その中でも僕はエレファントカシマシイースタンユースというバンドが好きでN君をPOPでキャッチ―な世界からエモい世界へ誘いたかったのでひたすらに念じていました…
「ギター担当辞めろ!!」
願いが通じたのかそのライブでギターが故郷に帰るので脱退する事が発表されました。

すぐさまN君の電話番号を初対面の人達に聞きまくりストーカー寸前の行為をして電話番号をゲットして留守電にありったけの思いを込めてメッセージを入れました。

3日位後に何度も行き違いながら要約電話を取ることが出来ました。
そうしてそのバンドを全てギターで弾ける事とオアシスとイエモン曲を1曲ずつコピーしてくることを条件にオーディションしてもらえることになりました。
オーディションなんて初めてだったので緊張もしたし、自分はココはこう表現したいというポイントのアレンジ案も持っていき無事オーディションに合格しました。

その日の内にミーティングをして東京にで勝負しよう。
と提案しました。
こんなにソングライティングがずば抜けていて地方でくすぶっていてはいかん!!
と年上のメンバーを説得しました。

当時インターネットというものがまだ始まったばかりだったのですが東京の物件をインターネットで年上のメンバーが探してくれました。

そして小手調べにまず名古屋のライブハウスに出て、てっぺんを取ろう!!
と目標を決めました。
かつてから名古屋のメジャーの登竜門と言われ恐れられていた社長のいるライブハウスEにレギュラーバンドのオーディションの申し込みに行きました。

初めて入るライブハウスの事務所。
映画で見た事あるようなボロボロなんだけど清潔感もあってコーヒーと煙草の匂いのムンムンする部屋で自分達の生演奏とデモテープを録音したCDを持ってブッキング担当の社長ではなく、PAをやっているYさんと会って話をしました。

かなり威圧感があり、
自分達でチケットを売って名古屋に客を呼ぶ練習とクオリティの高いライブを期待してる。
と言われその日は帰る事になります。

そのYさんと後日大揉めしてプロとは何ぞや??
を説教してもらう事になるとは当時は思いもせずに軽い気持ちで書類を記入して音源を置いてきました。

次回はライブハウスはライフハウス初めてのオーディション!!
です。

ご完読いただきありがとうございました。

凶器を楽器に持ち替えよう運動 その11

長らく時間が空いてしまいました。
申し訳ありません。
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ここからの内容は自分でもトラウマな内容の為、フラッシュバックを起こさないように一度紙に内容を書いてからの投稿となりましたのでお許しください。

それでは前回の続きからです。
地元の楽器屋で行われていたコンテストで暴動がありました。
それを聞いた僕はある事を思いつきます。

凶器を楽器に持ち替えよう

そのキャッチフレーズはすぐに僕の脳みそに降りてきました。

当時、真心ブラザーズの<拝啓、ジョンレノン>という曲に感化されていた僕はバカな平和主義者になろうとしました。

馬鹿でも良い。
良質な音楽を届ける。
それが例えばハードコアパンクでもビジュアル系の曲でも。

みんなが楽器を持ってバンド組んでライブやって平和を音楽で届けようぜ!!
なんてちょっとイカした考えを持っていました。

そしてもしかして総理大臣になったら小学校から音楽理論とリズムとハーモニー(和音)の勉強を取り入れて小学校1年間に1曲作曲するってカリキュラムを入れたいと妄想を膨らましていました。

まだまだ20世紀後半は暴力に溢れ平和ではありません。
真心ブラザーズ・拝啓、ジョンレノンより)

そして後輩たちと初めての主催ライブをやる事になりました。
言い出しっぺは僕でしたが父が新規事業をこのタイミングで立ち上げた為に、新規事業のを手伝いながらイベントの実行委員長になりました。

しかし父の事業の方が失敗してしまうとバンドすら出来なくなるという父の脅し文句から初めてのイベントの主催としては後輩に全て頼らざる終えずとても申し訳ない気持ちと自分に対して情けない気持ちがありました。

今思えばその時にはっきりと父に告げて住む場所も働く場所も自分で決めて音楽活動に集中すれば良かったのです。

ですがちょうどその頃、祖母が認知症になり急激に進行していき住んでいる地域のご家庭に迷惑をかけるような事が続き、その事も家族で乗り越えないといけないと思い、音楽活動の為に僕一人が出て行くわけにはいきませんでした。

今こうやって書きだしてみると凄く言い訳がましく見えてしまします。

東京へ旅立った友達もいました。
思えば僕も東京へ踏み出していればと思う事がこれから何度も起こるようになります。

こうして初のイベント主催を後輩に任せて感想を聞きました。

企画を考えて実際にやり出してしまえば高校の友達や先輩、後輩にチケットも売れるし実際に儲けも出たので面白いけど、
役割分担で揉めたと後輩から教えてもらいました。

一番揉めたのはブッキングとタイムスケジュールだそうです。
当時砂の数ほどいた沢山のバンドが出させてほしいと若い高校生の企画するライブに参加希望が相次ぎました。

僕の所にも相談があり、参加希望のバンドの代表を一度呼んでライブの企画の趣旨を説明しました。

そこにはまだ<凶器を楽器に持ち替えよう運動>は入れずに、
以前この楽器店のライブスペースで暴動が起こった事を反省して、ライブにおける出演者のモラルと気持ちを少しでも近づける為に、22歳以上の2年齢を超えるメンバーがいるバンドは申し訳ないけど世代間の交流の場をまた作りたいので今回は出場できませんと宣言しました。
文句もやはりありましたが暴動が起こった世代がティーンズという事もありサッカーのオリンピック代表ではありませんがオーバーエッジ枠として自分達の尊敬する先輩のバンドのみ出演してもらいライブの際のマナーを教えていただく事にします。

と唯一一番年上らしいことをしたのはこの時くらいじゃないでしょうか。
後輩たちが頑張って作り上げてくれたライブは大成功に終わりました。

皆で利益が少し出たので企画者10人程で吉野屋で特盛の牛丼を食べたのは今でも忘れられません。

次回はバンドでプロになる!!をテーマに書いていきます!!


凶器を楽器に持ち替えよう運動 その10

長らくブログの投稿できず申し訳ありませんでした。
今回は決定的なバンドメンバーとの溝と凶器を楽器に持ち替えよう運動を考え始めるのです。

バンドメンバーとは衝突の繰り返し。
既にバンドを脱退しようとする気持ちは固まっていました。
テクニカルなミュージシャンズミュージシャンにはなりたくなかったのです。
テクニックよりもより良いメロディをより良い歌詞を僕は求めていました。
16歳の冬、僕は副鼻腔炎を患っておりこの際、扁桃腺とアデノイドを切り取ってしまおうという約束をかかりつけの耳鼻科の先生と行っていました。
それまでは扁桃腺とアデノウイルスが原因の発熱を繰り返しており学校に行っても副鼻腔炎の鼻づまりで集中力も保つことが出来ず物事に対して集中が出来ませんでした。
そしてギターばかり弾いていたので勉強は全く…ダメでした。

2週間入院する事が決まり、以前から決まっていたライブもキャンセルして手術に挑みました。
手術中はもう痛くて痛くて死ぬかと思いました。

その時になんか後悔みたいなものが生まれました。

このまま自分の思ってる事と違う音楽をやり続けるのか?
それとも勇気を出して新たな一歩を踏み出すか?

手術後は姉と婆ちゃんが個室に泊ってくれました。
痛み止めの点滴を2時間おきに換えなくてはならないそうで婆ちゃんと姉が寝ずの番をしてくれていました。


夜中の2時ごろ…「痛いぃぃぃぃ!!!!!」

姉と婆ちゃんの悲鳴が同時に聞こえました。

婆ちゃんがベッドで寝て、姉がサマーベッドみたいなのを借りて寝ていたそうなのですが、婆ちゃんが見事に転落して姉の鼻の上に落下。
姉の鼻から大量に出血が…

看護婦さんがベテランの方だったので直ぐに姉の鼻が折れていないかチェックをしてくれました。
ひびかな??
折れてるような感じではないね!!

婆ちゃんは笑い転げている、姉も笑い泣き。
看護婦さんも
「こんな事30年近く看護婦やって来てるけど初めて!!」
と完全に笑いのツボに入ったのか夜中の2時に個室で3人で大笑いをしていました。
僕はまだ鼻の手術が終わったばかりで笑うと滅茶苦茶痛いので笑う事も出来ず涙を流して様子を聴いていました。

そうだよな…最後は自分が笑えるかどうかなんだよな!!

そう決心をした僕は3日後に喋れるようになったのでDrのM君に電話をしました。
バンド辞めようと思う。
ゴメン前から思ってたんだけどやりたい音楽じゃないし同じ方向に考える事ができなくなった。
としっかり過去形をつけて話しました。

「手術したばっかりだもんで気持ちが高ぶってるよね」
といなされ退院してからもう一度話し合う事になりました。

退院してからもう一度同じ事を伝えました。
しかし抜けるという事に賛同してくれません。

お互い気持ちは同じなのです。

彼らは新しいギターリスト見つけられるだろうか?
僕は新しいバンドメンバーをどういうふうにみつけるか?

彼らは僕がそのまま残りまぐれの一発が当たる様にコンテストに出まくってメジャーデビューがしたい。

僕はメジャーデビューよりも自分がやっていて楽しいと思える音楽とバンドをやって行きたい。

数々のバンドが解散する時に、
<方向性の違い> <音楽性の違い>
という言葉を使っていたがこの時初めて理解できた。

バンドを辞める時っていうのは、それまでの縁も切るつもりでかかって行かないと辞めれないのもそこで学んだ。

色々とあったが半ば強引に辞める事が出来たので良しとしよう。
機材をなぜか全部持って来いと言われたので自分の金で買ったやつだし…と言ったのですがバンドサウンドがこのマルチエフェクターとワウペダルに詰まってるとか言い出したので面倒くさいので郵送して全ての事を断ち切って次のラウンドへ進む事にしました。

バンド解散の時は金で揉めるという事もこの事で知ったのでした。

次のラウンドへ向かう時にある事件が地元で起こりました。
ティーンズの地区予選会場になっていた行きつけの楽器屋でティーンズのイベントの時にPANKvsビジュアル系の大喧嘩があった事を知るのでした。
僕が解散の手続きを色々している間に住んでる街でとんでもないことが起こってしまっていたのです。

この事件を機に


凶器を楽器に持ち替えよう運動

を始めるしかないと思い行動に移し始めました。

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凶器を楽器に持ち替えよう運動 その9

さてティーンズのファイナル大会は愛知県公会堂にて行われました。
ここはサクッと結果のみで
結果は何の賞も貰えずファイナル大会出場者という名を残すのみとなりました。

そこから今後の活動などをどうするか考えていました。
愛知県のロックシーンの中心は名古屋でした。
僕達は東三河のバンドです。
どちらかというと豊橋市や隣県の静岡県浜松市を中心に活動していかねばとタウンページをめくってはライブハウスの項目に目をやるのですが、
名古屋みたく定期的にライブを行っているライブハウスはなく貸しステージ的なライブハウスはありました。
そこでベースのD君が通っていたベース教室の先生が以前プロモーターをやっていたとの事で僕達のバンドをえらく気に入ってくれてライブの予定などは全てH氏に任せる事になりました。

ここから怒涛の勢いでライブ活動をして行く事になります。
とにかく月に2本はライブを入れてくれるので新曲作りが間に合わなくなってきており、毎回同じ曲順でらいぶをしていました。
当時はまだ16歳で高校生にチケットを売って見に来てもらうというパターンが出来上がりつつあったのですが、同時にメロコアを主とするバンドも一緒にライブに対バンとして出る事となりかなりの苦戦をしいられました。

メロコアバンドはオリジナルのクオリティも高く人気はうなぎのぼりでした。
僕達のバンドはというと燃え尽き症候群みたいな感じになっていて新曲もなかなかできずにH氏に2か月ライブ活動を休んで曲作りをしたい。
今後の方向性を考えたいと伝えました。
H氏からは
「俺は君たちの興行を仕事にしているから急にライブを減らすことはできない。半年先までもうハコを押さえてある」
と言われとにかく練習しながら新曲を作っていくという循環を作り出すことにしました。

その時にはもう完全に作詞作曲のイニシアチブはドラムのM君とボーカルのY君が取るようになっていました。
アレンジはベースのD君が考えて僕は練習場のM君の家に行って新曲の全体を聴いてこう弾いて、そこはこう弾いてみたいな感じで自分の考えたアレンジを入れる隙を与えてくれませんでした。
彼らはH氏に音楽理論を習っておりダイアトニックコード進行を自由自在に操り時には転調までも使ってくるかなり高度な曲を仕上げてくるようになりました。

僕の以降はテクニックバンドにはなりたくないのとシンプルで聴きやすいという彼らとは真逆の考えを持っていました。
テクニックに関してはそれぞれが楽曲の中で活かせれれば良いと思っていたのですがテクニックを使いたいがための楽曲になっており、かなり前衛的な曲に仕上がっていました。
例えるならビートルズの後期のホワイトアルバムのような…
そうして決定的な溝が出来ていくのが音を立てるかの如くわかるようになりました。

次回は決定的な溝と凶器を楽器に持ち替えよう運動を考え始めるです。

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凶器を楽器に持ち替えよう運動 その8

名古屋ダイヤモンドホールにてティーンズのセミファイナルを通過した僕達は、次は全国大会という所まで来ました。
次第にメンバーのモチベーションも上がり始めとにかくハイブリッドに行こうと決めました。
他のバンドは何かをアレンジにプラスしていて正直
「それいらないんじゃない??」
と思ってしまうアレンジの曲が多々あり、その当時からメモ魔だった僕は1バンドずつ良かったアレンジ悪かったアレンジなどの分析を書いてA4の紙に書きだしてメンバーと話し合いました。
今思えばライティングもしていたんですね(/ω\)

やっぱりメンバーのひとつの意志として思い切って捨てる所は捨てようと、名付けて
<捨てアレ大会>をしました。

まずは1曲そのままのアレンジで演奏します。
例えばドラムがオカズといってタム類を無駄に叩いていたらそこをシンバル1発にしてみよう。
そしてその前後の小節を演奏してみます。
それよりギターをかき鳴らすよりジャーンと1回かましたほうが良くない?
ドラム前に戻そう!!
と今思えば途方もない作業を1曲に向けてしていました。
正解は答えなんかないのです。
自分達で見つけるしか!!
ここで初めて皆の心が一つになりました。

色々なバンドを参考に聴きました。
僕は基本に戻ろうという事でビートルズストーンズを聞きました。
ストーンズは早い段階で参考バンドから外れました。

ビートルズHey JudeとLet it beを最終形態としたアレンジに持って行く事にしました。
自分達でコンテストの審査委員になったつもりで自分達だったらどこを見るかという事もしました。
録音した曲を聴いてとにかく原稿用紙400文字感想を書く。

そうするとある事に行きつきました。
ギターバンドを僕は目指していました。
ギターバンドとはギターがアレンジの中核を握るバンドなのですが、ギターが自由に動き回るにはベースのアレンジとドラムアレンジが要になってくる事に気付きました。
なので極力リズムという言葉を頭に置きあらたなアルペジオアレンジを考えました。
アルペジオとはギターのコードを抑えて各弦をバラバラに弾く事です。

そうしたら見事にハマりました。
メンバーには内緒にしてあります。
弦を弾く順番を2か所変えただけでしたがこれでもかという位、素敵な曲に仕上がりました。

これ以上やると今度はアレンジを足したくなってくると思った僕はリーダーとしてアレンジは以上。
あとは以下に演奏面でアピールする事が出来るかを考えました。

結論は顔で弾け!!顔で叩け!!でした。
ギターのここ聴いてって場所で顔を思いっきりくしゃくしゃに気持ちよく感じてるような顔にする事を提案しました。
そうすれば自然と身体も動くので振り付けみたいなクソダンスをつける必要はないと実行してみてメンバーを説得する事になりました。

これ以上ない名曲感をもってファイナル大会に挑むことになります!!
次回はファイナル大会の結果とその後のバンド活動を書きます!!

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凶器を楽器に持ち替えよう運動 その7

ダイヤモンドホールにてティーンズミュージックフェスバル(以下ティーンズと表記)のセミファイナルが行われ開会式も終わり後は本番を待つだけとなりました。
このティーンズのセミファイナルは自分のバンド人生において、ギターを弾き続けるか辞めてしまうかの最大の岐路だったと思っています。
その為このセミファイナルの章は少し長くなっていますがご容赦ください。

最初のバンドからいきなりテンション爆上げで超盛り上がりました。
それで僕達のバンドのテンションも一気に上がり何故か他のバンドの皆さんに交じって何度も円陣を組んでこのセミファイナル自体を盛り上げようと出演者一体になりました。
その時にまだ演奏もしていないのに感動して泣きそうでした。

そうなんだよ!!
バンド始めた時の頃から感じていた何かをここで掴んだのです。
ビートルズと一緒の気持ちなんだ!!
お客さんに良い楽曲と良い演奏をパフォーマンスを見てもらえるのが一番のやりがいで、喜びだったという事に他の出演バンドのメンバーさんから言葉ではなく行動で教えてもらいました。

そして今を、この一瞬を全力で生きてるという実感から生まれて今までの事が走馬灯のように頭によぎりました。
家族への感謝、友達への感謝、そして興味に来ていただいているお客さまへの感謝がとめども無くあふれ演奏前から号泣していました。

その点ドラムのM君は小学生の頃からの同級生でマーチングバンド部で全国大会に出場したこともある猛者なのでリラックス方法を教えてくれました。
ただイメージ―する…
演奏している場面…演奏が上手くいって観客に手を挙げて応えている場面…ひたすらそれをイメージするようにアドバイスをもらいました。
それからメンバーは演奏が来るまでただひたすら目を閉じてイメージしました。

そして出番がやってきました。
もうイメージどうりの世界でした。
会場の音も聞こえてこないひたすらに演奏に集中して観客をみて身体を動かす。
そして気付いたころには演奏も終わりMCのお姉さんとお話をしていました。

目標としていく音楽は?
との問いにバンドのリーダーとして60年代~70年代の古き良き音楽を90年代のロックなりポップスなりの音楽に再構築していきたい。
MCのお姉さんは
「という事はミスチルや、スピッツのような世界観のあるジャンルですね」
となかなか的外れな事を言ってくれたのですが、他のメンバーがそれを誉め言葉だと勘違いしてくれて今後のバンド運営に大きな溝が出来たのもこの瞬間でした。

結果は見事セミファイナルも突破して今度は愛知県ファイナルに進む事になりました。
僕の中ではここまで勝ち進めただけでも最大の喜びでしたが、更に大きな評価をいただいた事により、頭をぶん殴られた様な衝撃が走りました。

まだまだこんなもんじゃない!!
ここまで来たら全国大会出場だ!!
とかなりの興奮状態で家路に着きました。

次回はファイナルに向けての葛藤。
本格的なライブ活動に入る。
を書いていきます。

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