凶器を楽器に持ち替えよう運動 その16

令和2年となり今年初のブログとなります。
凶器を楽器に持ち替えよう運動の連載も16回目となりました。
本年も宜しくお願い申し上げます。

はかせコバルト

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さて前回の続き…はかせとN君覚醒する。
前回のLIVEでの失敗を猛反省して次に出来る事は何かを考えました。
それは名古屋の栄でLIVEハウスEの行っている野外フリーライブに出演して無料テープを作ってLIVEを見に来てくれた人達に配りまくるのはどうだろうという所に辿り着きました。
その為にはまずLIVEハウスEの定期ライブを休んで3か月後必ず100枚チケットを売って戻って来るという約束をする事でした。
その日は来ました。
EでのLIVEが終わり担当の人との反省会で取り敢えず今回のLIVEをもって3か月間はフリーライブで集客をしたい。
と言った所で担当のPAさんに
「ブッキング飛ばして集客なんて会社休んで日払いの仕事行ってきますって言ってるのと同じだぞ!!LIVEハウスなめとんか!?」
と突然キレ出しました。
「LIVEハウスがどういう所だか分かりませんがとにかく3か月で100枚チケットを売って形作ります。」
PAさんは
「それ1回きりの話じゃねぇよな?続けるんだよな?毎月100枚。」
N君は
「もちろんプロになるにはそれ位の売り上げが必要なので…」
またPAさんがキレ出す…
「そのプロじゃないって言葉を絶対にEのベテランバンドにすんじゃねぇぞ!!殺されるぞ!!1円でも金もらってる以上はプロなんだって自覚を持ってねぇならEの神聖なステージに立つ資格ないぞ??」
N君は
「僕らの言うプロはメジャーデビューしてからだと思ってます。」

すかさず灰皿をどこかへぶん投げるPAさん…今日は殺気立ってるな…
N君は
「毎月6万円(2100円×30枚)のノルマを払わされている。今の時点ではこっちが客だ。ダメならハコ変えます。」

PAさんは
「じゃわかりました3か月後チケット100枚売って、またEのステージ空けて待ってるんで…」

苦虫を噛みつぶしたような顔で去っていく。
来月からはブッキングはないので事務所で社長の説教を聞く事もなく、

とにかく野外ライブの準備に入った。
無料テープを作って、ダイレクトメールの郵送をアンケートから住所を拾って。

当時はまだPCなんかメジャーではなくて企業が使うものだったので僕達はルーズリーフに書いてあるファンの情報やチケット販売の実績過去のライブのセットリストに動員数全てそこに情報が詰まっていた。
セットリストとは曲順表の事で曲順を細かく変える事で動員にどういう影響ががあるかを徹底的にデータ化した。

当時は毎週土日に名古屋栄のもちの木広場でフリーライブが行われていた。
大体出演バンドは10組ほど早いもん順でブッキングが決まる。
N君はすかさず連絡入れてブッキングを間違いなく取っていた。
今思えば感謝しかない。
3か月後に100枚売ると言い切って行うフリーライブ。

まさにそこは戦場だった。
ベテランバンド勢の固有のファンしかり、通りがかりの人含め全ての人にチケットを買ってもらえるチャンスがある訳だ。
お客さんの取り合い。
<対バン>
この言葉は僕らの出ていた名古屋大須のライブハウスEの社長が使いだしたのだ。

僕達にとっては何百回の中の1回のライブだけど初見さんにとってはその1回が僕達の全て。
命を懸けて全力でやるしかない。
やってやる。
静かな情熱が僕とN君とYを燃やした。

確か3か月後のライブまでは土日の2日×4週で月に8回のライブ。
8回のライブ×3か月で24回のライブそれ以外にもイベントがあれば出演した。

約30回のLIVEを行う間にファンを100人作る。
持ち曲が足りない。曲を増やそう。
ステージングの勉強の為にベテランバンドを研究。

自分達の演奏が終わればすぐに持ち場へ行きアンケートと無料テープの配布を行った。
最初はアンケートも無料テープも思うようにもらってくれなかった。
それが一番悔しかった…無料でも貰ってくれないのか…

落ち込んでる暇はないとにかくライブとアンケートと無料テープの配布を徹底して行った段々と貰ってくれる人の数も増えた。

そしてとうとう3か月が過ぎてLIVEハウスEでのブッキングライブ。
100枚には届かなかったが一番最後のEでのライブの10倍以上のお客さんを会場に呼び込んだ。
当日のライブはモッシュの嵐!!

これが本当のLIVEだと実感した。
まだまだ先はあるがこの動員を減らさないように、とにかくイベントや野外ライブは欠かさぬように出演した。

ライブハウスEのチャージバックは6桁になりそこから練習スタジオのお金とイベント出演のチャージを支払っていた。

N君と夢をいつもLIVEに向かう車で話し合っていた。

いつかチャージ払わなくても良くて逆にギャラがもらえるLIVEしたいよね。
って同じ話を100回はした。
動員も伸び続け、TVやラジオや雑誌などメディアにも取り上げられる事が多くなった。
そしてその年Eで単独で最も動員のあったバンドに選ばれる事になった。
事実上名古屋のテッペンに立ったのだ。

CDリリースもワンマンと東京渋谷のオンエアネクストでリリースイベントも行わせてもらった。

そこで僕の感情に変化の起こる事が見れた。
渋谷にいった時に感じた名古屋にはない違和感。
女子高生?ブレザーを着た女の子がおっさんと道玄坂の裏通りにあるホテルに消えていく。
と思えばホテルからおっさんと出て来た女子校生?がチーマー風の男達にお金を渡している。

初めて見てしまった日本の裏側。
こりゃ音楽で世界をかえにゃならん!!

これが後に凶器を楽器持ち替えよう運動の始まりとなっていくのです。

次回最終回
凶器を楽器に持ち替えようファイナル!!
です。
ご完読ありがとうございました!!