恵みの雨は正直者の所にのみ降り注ぐ 普通って何?

Twitterにこのような投稿をしました

このツイートはブログにしたほうが読みやすいと思い、超久しぶりにブログを書いてみる事にしました。
約6,000字のブログです。
いまだに見出しのまま、このブログを書き続けているわけですが、読んでいただけたら幸いです。
表題にあるように普通って何??
と、僕は幼少期から現在に至るまで、ずっと考えているのですが答えが見つかりません。
先ほどのツイートにもあるように、小さな頃男友達がカッコイイと言っていたものに対して、僕は好きなフリをしていました。

週刊プロレスと週

と、いうわけで続きを書き始めます。
小4でソフトボール部に入部したのですが、6年生は引退をして上には5年生しかいませんでした。
まず僕らはボールに触らせてもらうことができず、野球道具も触れる事も許されず、基本の足腰を鍛えるという事から6時限目が終わった後、体操着に着替えてひたすら小学校の外周を走らされるという事を指示されました。
僕は運動会の徒競走はいつも最下位で走る事全般が苦手でした。
そんなに体力が有る訳でもなく、マラソン大会も下から数えたほうが早い順位でした。
そんな僕が小学校の外周をまず5周走ってこいと言われ、同級生と走りました。
初めの1か月はいつも最下位で、息も絶え絶えで筋肉痛に襲われ夕食も食べれないほどに疲労困憊でした。
僕が5周走り終わるまで、同級生はグローブをはめてシートバッティングという、実戦形式の練習のボール拾いをやっていたり、主将の機嫌が悪い時は筋トレをやっていたりして同級生に迷惑をかけていました。
とにかく1か月間苦しくて、辛くても辞めようとは思いませんでした。
いつかボールに触れる、グローブをはめてキャッチボールをするという目標を持っていたからです。
1か月がたった日、顧問の先生が来て
「今月から外周10周」
言われ、血の気が引いてしまいました。
外周5周走ってる間、水も飲めず、ひたすら走り続けるので脳みそが麻痺してきて、まさに「無」の境地にはいるのですが、5周は何とか自分でも数える事が出来ました。
4周目からは、ホントに4週目?5週目じゃないのか?と正常な判断ができなくなるくらいまで疲れていたので、10周をどう数えるか一生懸命に考えました。
考えた結果が右のポケットに小さく丸めた紙を10個入れて、1周ごとに左ポケットに入れ替えていく作戦を使いました。

初日から1週間何とか最下位ながらも、10周走ることができました。
5周の時からそうでしたが、体力のある足の速い子は僕を抜かして周回遅れにされるので、とにかく周回遅れだけにはならないようにと目標を決めたのでした。

10周マラソンが始まり1週間過ぎると、これまで真面目に皆が走っていたのですが、校舎裏で歩き出す人が出始めました。
僕は周回遅れにされたので、歩いている同級生にかまっている暇はありません。
ただひたすらに走るのみです。
それから1か月して、とうとう周回遅れもせずゴールする事ができるようになってきました。
校舎裏で歩いている子は、相変わらず歩いていました。
僕が走るのを遅いのを知っているので、周回遅れにならずにゴールした時は、自分達のしている事を棚に上げて、僕にズルい事しとる!!
と言いがかりをつけてきて、理不尽にももう1周走らされました。

僕は悔しくて、情けなくて部活が終わった後、顧問の先生に事情を話しに行きました。
顧問の先生は、
「毎年こういう事があるんだよなー、分かった!!明日から俺が行ってタイム計るからそれでズルしてないか分かるだろ?」
先生はそう言って、鼻水たらして泣いている僕を慰めてくれました。

翌日、先生は約束通り冬の寒い中ウインドブレーカーを着て、僕らの10周マラソンをこれからタイムアタック制にして、速く走り終わった子から先輩たちが行っているノックに参加してもいいよと言ってくれ、タイムアタックが始まりました。
先生は完全防寒で椅子に座り20人程いた同級生の1周のタイムをノートに記入していました。

他の部活の同級生からはソフトボール部はキツイという噂が立っていましたが、僕らはこれが自分の選んだ道という事を顧問の先生に言われて、
「これからは自分で何もかも選んでいかなくちゃいかん。自分が守備でどこを守りたいかも決めなくちゃいかん。自分で決めたことに責任を持つってこういう事だ」
と、入部したての小4の僕たちに教えてくれました。

タイムアタックに話は戻ります。
先生の見てる手前、今まで校舎裏で歩いていた同級生も歩くことなく走っていました。
そして、僕は努力は報われるという事を、その日に知ることになるのです。
5周目位から、今まで歩いていた同級生達が一気に疲れはじめタイムが遅くなって行っているようで、顧問の先生に
「今まで何やってきただ!!」
と、発破をかけられています。

足の遅かった僕は、ただ愚直にポケットに丸めて入れた紙を右ポッケから、左ポッケに移して10周走り終えました。
何とその日初めて、3位でゴールできたのです。
同級生もびっくりしていて、顧問の先生が
「はかせ、いままでドベだったのに一生懸命走った結果が出とるな」
と初めて同級生の中で誉めてもらいました。

顧問の先生は、あえて部活に顔をしばらく出さずに校舎から新入部員の様子を見ていたそうです。
そして、歩いていた同級生の名前、足の遅い僕達の邪魔をしたり、ののしったりしてきた同級生4人の名前を言い、一歩前に出させました。

「君達はソフトボール部にいる資格はありません。今から一緒に職員室に行って、親に連絡するからついてきなさい。」
4人を連れて職員室に行ってしまいました。
僕らは先輩たちのシートバッティングの球拾いをするように言われました。
30分程して、4人と顧問が帰ってきました。
4人は泣いて帰っていきました。
顧問は
「はかせ、お前の家って今日親いるか?」
と聞かれたので、
「夜の6時ごろ夜ごはんを食べに帰ってきます。」
顧問は、
「今日、あいつらとその親連れて俺、お前の家行くから親に伝えといて」
こういって顧問は職員室に戻っていきました。
僕は
「???」
となりましたが、家に帰ってまず祖母に顧問が来ることを伝えて、
「何か悪い事したのか?」
と言われたので、今までの事の顛末を詳しく話しました。
祖母は、
「分かった、ばーちゃんは何にも言わへんから、先生達の言う事を、お父ちゃんとお母ちゃんに聞いてもらえ」
と言って18時が来るのを待ちました。
姉も顧問から色々聞いて帰って来たらしく、
「ウチの弟をいじめとった奴は許さへん!!」
と意気込んでいました。

両親が帰ってきて、祖母が今日顧問が来ることを伝えてくれて、いつもより早めに夕食を済ませて、顧問達が来るのを待ちました。
顧問がマイクロバスを運転して、4人の同級生と、その親を連れて我が家にやってきました。
両親も玄関先に僕と出て顧問が状況を説明してくれました。
「今日ははかせ君とご両親に謝罪に伺いました」
と、一言。父が
「どういったご用件ですか?」
と聞くと、
「私はソフトボール部の顧問の○○と申します。本日はかせ君に対して部活中イジメがあったことが発覚しました。事の詳細を連れてきた4人の生徒からお話をさせるので、お時間いただけませんか?」
父が
「とりあえず家に入ってください」
と家に招き入れました。

こうして4人の僕をイジメてきた同級生の話が始まりました。
内容は、はじめは僕がいつも最下位で外周マラソンをゴールしていたのに少しずつ、自分達を追い越すようになって、生意気だと思って嫌がらせをしてしまいました。
ごめんなさい。
といった内容でした。
父も顧問も、
「なんで同級生なのに生意気って言葉が出てくるの?だいたい年下の子とかに生意気って使うと思うんだけど」
不思議そうに聞いていました。
同級生は、
「はかせ君は2年の途中から引っ越してきたので、僕たちの方が〇〇小にいたのが長いので半分下に見ていました」
と同級生が言いました。
顧問も父も同級生の親も生まれてから、同じ小学校、中学校を卒業して転校をしたことがないので、転校生の気持ちを汲み取れないでいたのです。
転職でもそうですが、新しく人間関係を築くのは凄くパワーが要ります。
なので僕は早く馴染むにはどうしたら良いか考えて、その当時流行っていた
カトちゃんケンちゃんご機嫌テレビ”の志村けんさんの物まねを覚えて、みんなの前で物まねをしていたら、
「こいつ面白いやん!!」
と言われ友達を増やしていったのですが、スクールカーストの上位にいた、ドッジボールが強くて、足の速い子達に目をつけられ、急にみぞおちを殴られたり、無理矢理プロレスごっこをやらされ、技をかけられたりと散々な間にあっていました。
その子達が今回イジメを仕掛けてきた4人です。

その誤りに来た4人は家柄も良く、社長の息子や税理士、司法書士、高校教諭の息子でした。
父はまだ脱サラして運送業を始めたばかりの事で、子供達の事を考える余裕がなかったのです。
一刻も早く仕事を安定させて、それからでも子供達と遊ぶ時間は取れると考えていたのです。
父は
「子供同士の事なので、自分に謝ることはないが息子に謝ってください。息子と仲良く遊んであげてください。それでも息子の事が嫌いなら、いじめるのだけはやめてください」
と父は同級生に震えながら敬語で対応していたのです。
父は昔から怒ると瞬間湯沸かし器のようなタイプの人だったので子供ながらにびっくりしました。
今度は親同士が話し合いました。
顧問は
「今回のイジメの件は学校に報告します。イジメがあったら学校は教育委員会に報告して、改善策を出さないといけません。イジメた側、イジメられた側の児童の名前も実名報告です。ご了承いただけますか?」
と双方の親に確認をとっていました。
父も相手側の親も
「はい」
と返事をしてしばらく沈黙が続きました。

そして司法書士の親が、父に謝罪をしました。
「私達はここの土地で生まれて、ここの土地で育って、親の言うがままに仕事を継いで、子供もできて順調に育ててきたと思い違いをしていました。ウチの子に限ってイジメはしないだろうと思っていました。イジメを助ける方の子供だと思っていました。親の育て方の責任です。申し訳ありませんでした。」
と、涙と鼻水を流しながら声を絞り出していました。

父は、
司法書士の先生のそんな姿、見たくないし子供達にも見せたくないから、頭を上げてください」
他の親御さん達も一緒に頭を下げていました。

僕は4人に、
「はかせ、本当にごめんね。これからまた一緒に学校でドッチボールとかサッカーやろうね」
と謝罪を受けた。

僕は
「うん。過ぎたことだから。でも今回の部活の件はこれ以上イジメられると学校に行くのが怖くなっちゃうから、先生に言いに行った。こちらこそ大人にチクってごめん」
と僕も謝った。
双方、謝った事により、今回の件で絆がより深くなりました。

顧問からの提案で
「親同士、子供同士が握手をしてこの場を終わらせませんか?」
僕たちは提案を受け入れて、全員と握手した。
そして、マイクロバスに乗って帰って行った。
今でも30年以上経った今でも、この4人とは交流が続いています。

両親は少し呆然としながらも、夜の積み込みと配送があるのでトラックに乗って仕事に向かっていった。
母は涙を流しながら
「お父さん、子供達に苦労させてまで、この仕事やらなアカンの?」
と言っていたが、父が
「とにかく仕事終わらさへんと、お金がもらわれへんやろ!!行くぞ」
と言い出ていった。

祖母が僕と姉をハグしてくれて
「だいじん子(大事な子)」
と言いながら何回も背中をさすってくれた。

その時、祖母がこう言った
「真面目に正直に、辛くても、痛くても我慢しないといかん事もある。頑張ったら、頑張っただけ自分の知恵と力になる。真面目に正直やってこうね。ばあちゃんが、死んでおらんようになっても忘れたらあかんで!!」

それから10年後ばあちゃんは認知症を患い、何度も引っ越しと転校を繰り返す我が家の守り神となって僕らを育ててくれました。
その時、本屋さんで何気なく購入した、自助論という本に記されていました。

めぐみの恵みの雨は正直者の所にのみ降り注ぐ

祖母が言ってくれた金言と同じような意味の言葉が。
今でもこの言葉は僕の行動するための、勇気づけを与えてくれる言葉です。
いつまでも大切にしたい言葉のひとつです。
ご完読ありがとうございました。

めり込んだ 字で試合内容を見て、脳みそで試合を映像化していた 友達と遊ぶ事より、ボロボロ