親父キャンディー〜はかせ家歴史ヒストリー2〜

高校を卒業した親父はまず爺ちゃんが、
戦友のツテで始めた東京築地での漁師さん専門の装飾品の商いを手伝ったそうです。
地元での行商に限界を感じていた爺ちゃんは
家族を食わす為に単身赴任で東京のアバートを借りて築地で上陸用の装飾品や土産の商いを始め当てたそうです。
月に一度帰るか帰らないかの生活をしていたそうで、親父が高校生の頃その商売を始めたそうです。
なので前回書いた歌手になる夢も東京で、
芸能の世界を見ていた爺ちゃんはとてもじゃないけど、親父をドス黒い芸能の世界には入れたくなかったとの事でした。
それは爺ちゃんが亡くなり葬式が終わった後爺ちゃんの戦友が親父に教えてくれたそうです。

そして親父に跡を継いで欲しかったようなのですが、明治男は素直に親父に言わないままだまって親の言う事を聞いとけ!!
という気質の人物だったようで、
親父には気持ちは伝わっていませんでした。

上陸して来る船男達に満足して貰えるような品物は既製品では間に合わなく、
銀座の金細工の職人さんに船員のお客様の希望をほぼ聞き入れる様な無理な発注もした事があり親父のような高校卒業したての若造は相手をしてもらえるはずもなく、
ひたすら爺ちゃんの発注の仕方と原価にたいして利益をいくらつけるか隣で覚えたそうです。
例えば熊本県の漁師が上陸すると八割方熊本城の純金のベルトのバックルを買い求めたそうです。
地元名物や史跡などを金を使ったベルトのバックルを着けるのが船乗りのステータスだったようです。

東京での暮らしは質素で四畳半一間の風呂なし共同便所のボロボロのアバートとで漬物をオカズに朝食と夕食は済ませていたそうです。
昼食はほとんど取らずに接客をしていたらしいので当時はそうとう稼いだんじゃないかと言っていました。
稼いだお金は地元の婆ちゃんの義理の親に全て送り管理してもらっていたようです。
必要な額を婆ちゃんが貰いに行っていたと聞きました。
親父の下に妹と弟がいてまだ学生だったので、自分の様にはさせたくないという思いから稼いで自分の好きな人生を選べるように、
寝食を惜しんで仕事をしたそうです。
親父は爺ちゃんが40過ぎてから出来たらしく成人の頃には60歳を迎えていたそうです。

ある日一緒に東京から地元に帰ってきてから、病院について来て欲しいと言われたそうです。
親父は訳も分からず病院に行き爺ちゃんの主治医から爺ちゃんの身体の状態を聞くのでした。
心臓が溶けているような状態らしく、
持ってあと5年と言われたそうです。
まだ20歳になったばかりの親父はまだ5年と思ったそうですが、
爺ちゃんは覚悟が出来ていたようです。

地元に行き、まず婆ちゃん名義の土地を全て婆ちゃんの義理の親に譲りました。
婆ちゃんは赤ちゃんの時に両親を亡くし、
兄弟姉妹バラバラで義理の親に土地付きで貰われたそうです。
爺ちゃんと結婚する時に婆ちゃんが持っていた土地は婆ちゃんの物だからとそのままにしていたそうですが、
代が変われば考え方も変わると言う考えの元、育てていただいたと言う理由で全てを婆ちゃんの義理の親に譲ったそうです。
仮に爺ちゃんが先に亡くなったら、絶対に婆ちゃんにそういう圧力がかかるのが分かっていたらしく生きてる間に無償で譲ったそうです。

その際東京から送って管理してもらっていたお金を返してもらおうとしていたのですが、
婆ちゃんの義理の実家に行くと何と民宿料亭に変わっており、そこで爺ちゃんは全てを察したそうです。
すまん。
と、義理の親に頭を下げられた爺ちゃんは預けたのはこっちだから別に親がどう使おうが口出しは出来ないと預けた金額の1割も満たないお金を返してもらい残りは借用書を書くと言う申し入れも親に借用書を書かせる子はいないと言って断ったそうです。

3日間地元でじいちゃんは遺言書を書いていたそうです。
葬式の手はずも全て地元のお寺に行き伝えていったそうです。

爺ちゃんの弟が東京でミシン屋さんをやるというので、
築地の店を売りその売れた半分以上の金額をお祝いとして差し出したそうです。
今でもそのお店はホームページに載っていて親父に見せると、
良かった代替わりもしっかり出来たみたいだと会長の名が親父のイトコに変わっているのをみて安心していました。
そのお店を売ったお金の半分と東京で稼いだお金で地元の家の修繕を行なったそうです。

爺ちゃんは半分世捨て人の様な性格だったと親父からよく聞きました。
生まれた時から複雑な状態だったそうです。

旗本の武士の家に産まれたのですが、
爺ちゃんの父君が東京女学院の師範と恋愛関係になり父君が嫁に取ろうとしたのですが、
爺ちゃんがお腹にいる時に曾祖父には許嫁がいる事を教えられ産んだ子が男の子の場合は曾祖父が引き取り、女の子の場合は養子に出すと取り決められ爺ちゃんが産まれ曾祖父に引き取られるのですが、数年後に産まれた継母の男の子にイチという字をあてた名前をつけた為に幼少の頃から小学校を出してもらったら丁稚奉公に入り軍隊に入れる年齢になったら軍隊に入ろうと決意して生きていたとの事です。

想像極まりない生い立ちから戦後亡くなるまで常に諦めなければならない選択をせざるを得ない爺ちゃんが戦後世捨て人の様に生きたのも分かる気がしました。

爺ちゃんは曹洞宗の家に産まれたので、曾祖父からは常に良寛さんの本を与えられていたそうです。
なので常に質素倹約、起きて半畳寝て一畳と親父は言われて育ったそうです。
その爺ちゃんの余命を聞いた親父は5年という月日の経つ早さに驚いたといいます。

築地の店を売り、家を修繕した後爺ちゃんは隠居に入ります。
親父は地元の装飾品販売組合で会計の仕事をする事になり、爺ちゃんは役場で帳簿の付け方の教えを請われて講習に行っていたそうです。
その時余命後1年。
親父は母と出会います。
段々と入退院を繰り返す爺ちゃんを見て、
やっと結婚を決意する人が現れたのです。
結婚式当日も入院生活だった爺ちゃんは、
外出許可をもらい病院から息を切らしながら歩いて15分の所にある母の家に直接母を神社まで連れて行く役割をしたそうです。
神社まで送り届けると救急車が待ち構えており、そのまま病院に戻ったそうです。
なので両親の結婚式の写真は爺ちゃんは写っていません。
婆ちゃんはめちゃくちゃ心配した顔で写真に写っています。
結婚式の写真なのにほとんどの人が笑っていないのには、
僕の友人の両親の結婚式の写真を見ると僕の家の写真だけなので、
その時の爺ちゃんの命を懸けた壮絶な嫁貰いを親族一同が心配していたのが
伝わってきます。

そしてめでたく式を挙げた2人ですが、
今度は子供が出来ない事態になり、
京都まで不妊治療に通う事になるのです。
僕はまだまだ産まれません( ;∀;)
京都でドラゴンステーキを喰らう両親に妊娠が
判明するのはいつなのか?

そこには想像を絶する感動のストーリーと
信じられない別れと誕生のミステリーが!!

まだまだ続きます!!
次回をお楽しみに!!
ご完読ありがとうございました。