親父キャンディー~はかせ家歴史ヒストリー~

久々の記事になります!!
ネタ探しをしておりました所、
いました!!
僕の親父!!

生まれながらにして破天荒な人生を送った親父のエピソードを
本人に身バレしないようになら書いてもいいぞと
許可をもらったのでつづっていきます。

【親父の生い立ち】
第二次世界大戦末期に誕生した親父。
爺ちゃんと婆ちゃんが待ちに待った第3子。
はかせ家の長男として生まれました。
爺ちゃんは軍隊ではなく軍属の水先案内人で
戦場の補給物資を運ぶ船に乗っていたそうです。
親父が生まれたのを聞いたのも船の中だったそうです。
軍属の中でも位が上だったようで馬を与えられたそうです。
戦争が始まった頃は軍隊の偉い人に、
戦争に勝ったら島をもらう約束があったそうです。
しかし戦争に負けて帰って来た時は靴下に玄米を2合ほど入れて
帰って来たと婆ちゃんから聞きました。
他の爺ちゃんと同じ位に就いていた軍属の人達は、
金目の物を取り合い醜かったのと同時に、
船が何度も爆撃に合い同じ船に乗っていた何人もの人が
亡くなったのを苦にして短刀を持って切腹しようとしていた所を
近所の長老方に止められて恥ずかしながら生きていく道を
選んだそうです。
戦争が始まる前は貿易の仕事で海外によく行っていたそうです。
なので英語はペラペラで暗算も7桁位の複数の足し算位なら
そろばんを弾くよりも早くできたそうです。
なのでよく地元の小さい会社の決算があると呼ばれて経理の仕事を副業にしていたそうです。

それを聞いた時に僕にその遺伝子が来ていない事を残念に思いました。
そして僕は爺ちゃんが亡くなった後に生まれたので爺ちゃんの姿は写真でしか見た事はなく声も聞いたことがありません。
今でも夢の中でもいいから会いたいと願っています。
僕の事は置いといて…

長男を見た時の爺ちゃんはとても複雑そうな顔をしていたと
婆ちゃんから聞きました。
戦争が終わり何もない時代にこれからどういう風に
育てていけばいいのか、
自分だけ生き残ってきた苦しみにさいなまれ、

素直に喜びの言葉や表情を見せなかったと聞きました。
しかし年を重ねるたびに親父が育っていくのを
楽しみに働いていたといいます。
<親の気持ち子知らず>
ことわざにあるようにかなりヤンチャだったそうです。
しかし勉強は学校では小、中とずっと一番だったそうです。
爺ちゃんが船乗りだったので将来は船に乗って貿易商をやりたかった
と親父は回想しました。
しかし戦前、爺ちゃんと婆ちゃんで一斗缶に貯めてあった
沢山のお金も戦後の新円切替によって、

ja.wikipedia.org

全く価値のないものになってしまい中学三年生の頃の進路指導で
先生から進学をすすめられたようです。
はかせ家は地元の行商人として、こじんまりと目立たぬよう
細々と暮らしていたようで進学に充てる費用は無く、
親父は当時15歳の身一つで、遠洋漁業のカツオ船に乗って
アフリカの方までお金を稼ぎに行ったそうです。
一番の年下だった為、飯炊きから風呂焚き洗濯まで先輩の
身の回りの仕事をやりまくったそうです。
それこそ船の上だからもうどれだけしんどくても帰れる訳もなく
覚悟を決めて半年ほど竿を握らせられる事もなく下働きを
やっていたそうです。
半年少し過ぎて要約、南アフリカに到着しケープタウンに上陸を
したそうです。
周りは腕っぷしの良い男の人ばかりで15歳の親父は自分の子供のように
可愛がってもらっていたそうです。
しっかりと行儀見習いのしつけを受けたのも船の中だったとの事です。
日本人が外国に上陸しても恥の無いようにしっかりと、
上陸してからの現地の言葉でのあいさつや日常会話なども教えてもらった
そうです。
上陸するとしばらくはコテージのような所をあてがわれ、
年の近い船員達と喫茶店のような所に出入りしていたようです。
そこでウエイトレスの女の子に話しかけられて、
付き合う事になったようです。
上陸2日目!!
しかも出発は14日後!!
親父は決めたそうです。ここでこの子と暮らそう…
他の船員さん達には内緒で恋は進んでいったようです。

そして運命の14日目が来ました。
親父は15歳で見た目も少年そのものなのでお酒も貰えず、
ひたすらコーヒーを飲んで彼女の店にいたそうです。
船長も既に全員乗り込んでいるはずだと思っていたらしく、
出発時間30分前までは点呼を取らなかったとの事です。

年の近い船員はすぐに気づいたらしく、
4人でその喫茶店に駆け込んできたそうです。
手足をバタつかせて抵抗したそうですが、
さすがに腕っぷしの良い船員4人に抱え込まれ、
タクシーに乗せられ出発ギリギリで船に乗れたそうです。
戻った時にはそれはそれは怒られたそうです。
こういう恋は初めて遠洋漁業に行く人あるあるなようですが、
15歳の少年を親から預かった以上は責任をもって
親元に返す義務がある事を船長を始め、先輩からコンコン
とお説教をもらったそうです。
その後はその恋を忘れるために我を忘れて仕事に打ち込んだそうです。

結局1年程で地元に帰り同級生とは1年遅れで高校に進学したそうです。
船乗りになるために一生懸命勉強に励んだらしいのですが、
当時の船乗りの免許の発行の条件が裸眼で一定数ないと行けなかった
らしく、視力が落ちて眼医者さんに行った時にはもう試験を受ける
条件を満たしていなかったそうです。
それが高校1年生の夏。
もう目標も何もなくなったそうでひたすら遊んだそうです。
ですが勉強は何故か出来たそうでテストでは常に学年の5番以内を
キープしていたそうです。

そして友人と盆祭りや正月になると地域のカラオケ大会に
出ては優勝しており、五木ひろしさんがまだ違う芸名の頃
五木ひろしさんのマネージャーが学校まで父を訪ねてきたそうです。
是非有名な作曲家の先生の弟子になって歌手になって貰いたい。
もちろん生活の費用はこっちで持つ。
と破格の条件だったそうですが、
爺ちゃんは明治生まれの稀代の頑固者。
長男を安々と家から出すわけにはいかん。
はかせ家の跡継ぎなんだぞ!!
と追っ払ってしまったそうです。
それから爺ちゃんと親父の確執が始まったそうです。

父は船乗りになる夢を絶たれ、
大好きな歌で東京からスカウトに来るなんて夢にも思わなかったようで
やってみたいと懸命に爺ちゃんにお願いしたそうですが、
爺ちゃんは聞き入れてくれなかったそうです。

はかせ家は戦争で亡くなった人たちを追悼するために決して派手にせず、
細々と暮らしていかなくちゃいけないんだ。
と爺ちゃんに言われ戦争で犠牲になった爺ちゃんと同じ船に乗っていた
船員さんの家族に後ろ指を指されないようひっそりと暮らして行かなくちゃいけないと常々教えられてきたそうです。

親父からしてみれば目の前にあった大きなチャンスを無理やり
奪われてしまったのですから相当溝が深くなったと言います。

それからというものテストの日位しか学校に行かない日が
続いたそうです。
高校2年の時の進路指導の際も周りの成績が優秀な同級生たちは
次々に東京の大学に推薦が決まり、親父も学力がそれなりにあった
為、東京の大学に行かせてあげられないかと高校の進路指導の先生が
爺ちゃんに聞きに来たそうです。
そこでも親父は爺ちゃんの意向により大学に進学することが出来なかった
そうです。
地元の企業に勤めてここで暮らして行け。
爺ちゃんは死ぬまで戦争で生き残った事を恥じてうつ病の様な生活を
していたそうです。
親父は犠牲になった方々の為にも勉強をして商社に入って貿易の仕事を
覚え、犠牲になった方々の家族を起業して養うつもりだったようです。
しかし爺ちゃんは一切親父の希望を聞き入れる事がなかったそうです。
学生の内は親の言う事を聞いていなさい。
というスタンスだったので学校を卒業したら地元で働いて遊んで暮らす
と決めていたようです。
結婚も絶対にしないから孫を抱かせる事もないと、
爺ちゃんへの溝は深まるばかりだったようです。

婆ちゃんが生きてる時に言っていたのは、
親父の人生だから好きにさせてあげたかったけど、
爺ちゃんが怖くて言えなかったそうです。

そして19歳になり高校を卒業します。
当時は不良という言葉もなくバンカラと呼ばれていたそうです。
卒業式にも出る事はなく友人たちと麻雀をやっていたそうです。

取り合えず親父ヒストリーを連載していきます!!
次回は親父社会人になるの巻きです!!

ご完読ありがとうございました。

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