親父キャンディー〜はかせ家歴史ヒストリー3〜

そしてめでたく式を挙げた2人ですが、
今度は子供が出来ない事態になり、
京都まで不妊治療に通う事になるのです。
僕はまだまだ産まれません( ;∀;)
京都でドラゴンステーキを喰らう両親に妊娠が
判明するのはいつなのか?

そうなんです親父と母が結婚したのもつかの間、
ちょうど1年が経ち爺ちゃんは亡くなりました。
心臓の病気は息が出来ない苦しみから相当大変だったそうです。

葬式も終わり数日後、親戚達に子供はまだなの?
と聞かれた両親はそのうち出来るから楽しみにしとってね!!
って親戚や僕のいとこに言ったそうです。

それから7年間両親は子を授からず、7年間京都の病院で不妊治療を
したそうです。
ですが7年目にもうあきらめて親父の姉の子を養子に貰おうと話が進んでいた矢先の事でした。
母が買い物中に吐き気が凄くなりタクシーで家に帰って来たそうです。
母は超鈍感なのでその日は朝ご飯に卵かけご飯を食べたようで、
古い玉子食べちゃった!!
と婆ちゃんに言ったそうです。
さすが婆ちゃん直ぐに母を連れて産婦人科へ受診すると見事、
姉の妊娠が判明したそうです。
姉の妊娠を卵かけご飯の古いのと食べたと間違える母の
鈍感な感じにほっこりしますが(笑)

どんどん大きくなっていくお腹。
お腹の中で手や足の形が分かるくらい暴れる胎児。
はかせ家では絶対に男子が生まれてくると予想されていたようです。
胎動が激しく母は何度も倒れこんだそうです。

そんな中陣痛をもよおした母は病院に入院して、
つるっと姉を産んだそうです。
つるって表現に癖がありすぎて笑いました。

未熟児ですぐに透明な箱に入れられたそうです。
女の子と聞いて婆ちゃんはとても喜んだそうです。
ホントに僕が小さい頃は明らかに姉を可愛がっていましたから。
どこへ行くのにも姉と一緒で、僕はお留守番みたいな感じが
結構多くありました。

とってもヤンチャな娘だったと両親はいいます。
我が家は寿司は婆ちゃんや親父が握れるので魚を捌いて
すし飯を冷やしていると歩けるようになった姉が
ギャーっと叫びながら寿司桶の上をゴジラのように
横断していくのは当たり前で、
トイレットペーパーをミイラのように全身に巻き付けたりと、
様々な伝説を作って来たと聞きました。

そんな中僕の妊娠が判明したのです。
全然動かない胎児だったらしく絶対女の子と親族全員が思ったそうです。

父は男の子産んだら母に何でも好きなもの買ってあげると
約束してくれたそうで、クーラーを買ってほしいと言ったそうです。

予定日になっても陣痛の気配もないのですがある程度
お腹も大きくなって来たので早めの入院となったそうです。
入院3日目。
母は便意をもよおしたそうです。
トイレに座りいきんでいたら破水して大声で看護婦さんを呼び、
分娩室へ運ばれたそうです。

うんこと一緒に出てきたから感覚がうんこ。
と僕の産まれた時の感想を述べる母をしばこうかと思いました。
男が生まれたと聞き親族が皆驚いたそうです。

僕も未熟児だったらしく透明な箱にしばらく入っていたそうです。
僕はまぁホントに育てやすい赤ちゃんだったそうです。
母の隣で寝ていれば夜泣きもあまりせず、
ニコニコ笑っておとなしくベビーベットでコロコロ転がっていたそうです。

姉は僕が生まれてからも更にやんちゃさを増して、
僕の授乳中にもう一つの乳を僕と一緒に吸っていたそうです。
首が座りハイハイが出来るようになったら、
もう姉のおもちゃだったようです(笑)

目を離したら僕を持ち上げてパワーボムみたいに
地面に落とす遊びを発明したらしく、
僕も僕でそれが楽しいのかキャッキャッと笑って
パワーボムをされいたようです。

そのころ父はというと念願の企業の夢がかなって、
魚屋さんや漁師が使う漁箱を売る商売を始めて大ヒットしたそうです。
父の友人に手先が器用な人がいて今まで使っていた漁箱を改良したもの
を友人が作り父が売るという商売を始めたのです。
お互い独立して作る専門の会社と売る専門の会社にして、
それはそれは儲かったそうです。

なのですが特許を取る事をしなかったらしく、
全国展開をしている商社に全く同じものを大量生産され、
特許も取られ、しかも価格も安く売られたしまったようで、
僕が3歳の頃にはもう半分店はやってない状態でした。

父は漁箱が売れないので漁箱を売るのを辞めて、
当座の資金稼ぎの為に静岡の某有名自動車会社の期間工
していたそうです。
その先で血を吐いて倒れ診断の結果が胃ガンだったそうで、
すぐに緊急手術をしたそうです。

自分の一番古い記憶は父が家に居ないのと、
婆ちゃんと母がいつも親戚に囲まれて怒られている場面でした。

そして急に父は帰って来たそうです。
僕と姉は確か留守番をしていました。
姉とリカちゃん人形のヘアカットをしていました(笑)
そしたら大きな男の人がYシャツを脱いでお腹を見せながら、
ガオーって部屋に入って来たのです。
もうパニックです。
お腹にムカデみたいなヤツがあるし、
僕と姉はギャン泣きして家じゅうを逃げ回っていたそうです。
父はその声が笑っていると勘違いしていたらしく、
追いかけっこを10分ほど繰り返すと婆ちゃんがやってきて、
僕たちを抱きかかえ、
子供泣いとるやないかい!!バカタレ!!
とおじさんを一括。

よく見ると写真で婆ちゃんに教えてもらった親父の顔でした。
でも記憶の中に親父がいる生活をそれまでしてこなかったので、
しばらくは親父になつかなかったそうで、
さすがに親父も凹んだそうです。

親父が帰ってきてからは手の平を返したように親戚が、
店畳んで借金つくって家のローンどうやって払ってくの?

親父が店を始め一発当てた時は、
金の無心に来る親戚や知らない友達が増え母は気持ちが悪かったと
今でも言っています。
貸した金は返さずに親父が倒れたのがあたかも母の責任のように、
父方の親戚は母を責めました。
父はもうここには居れないと察したらしく、
家を売り一家ではかせ一族とは遠い土地で、
イチからやり直そうと決めたそうです。
その時はちょうど40歳になる頃だったようで、
今の僕と同じ年齢の時にこんなに苦労してきたんだと
とても驚きました。

父は新しい移住先での目標はもう一旗揚げたる!!
という覚悟の元移住してきたようです。

仕事は運送業
まったく未知の仕事の為、朝早く家を出て真夜中に帰って来る事が
ほとんどでした。
住み慣れた家はオンボロのアパートで持ってきた家具はコタツと、
母の嫁入り道具のタンスとガスコンロ。

4歳の僕を抱きかかえながら、
ここから始めよ!!
と言われたのを今でも鮮明に覚えています。

運送業と言っても幅広く主に建築資材を現場に届ける仕事をしていた
そうで毎日帰ってきては地図を見ている父の背中を見ていました。
運送業の親方にはいずれ一人親方になりたいと伝えてあった為、
営業の仕方やトラックの整備の方法などを親切に親方が家まで
来てくれて親父に丁寧に教えていました。

お父さんも勉強頑張っているんだからと、
僕と姉は学校から出される宿題は必ず帰って来てからやり終えて、
友達の所に遊びに行ってました。
前のお店の借金も返しながら金銭的には常に苦しい状態だったそうです。
なので周りの友達は新しい服を買ってもらっていたのですが、
僕と姉はいとこのお下がりばかりで何度も服の事で
学校でいじられましたが、
持ち前のひょうきん者精神で、
まだ着れるのにもったいないじゃん!!
服は福がついてるから簡単に捨てたりしたらイケナイんだよ!!
って言い返したら見事に納得する同級生が増えて、
わざとお兄ちゃんの来ていた服を着て来て、
これで運が良くなるんだよね?
と同級生に聞かれて、
もちろん福が幸福になって運が良くなるんだって!!
新興宗教の教祖のような存在になっていました。
幸福を語る男<はかせ>として(笑)

父は運送業での独立を目指し僕らと共に勉強の日々が続いていました。

次回は親父念願の独立!!しかし仕事がない!!
ある方法で一発逆転!!
を綴っていきます。

ご完読ありがとうございました!!



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