親父キャンディー〜はかせ家歴史ヒストリー4〜

今回は親父念願の独立!!しかし仕事がない!!
ある方法で一発逆転!!
前回の投稿から少し時間が空いてしまいました(;'∀')

親父は一人親方を目指し修行を始めました。
2年が経ち親方から認められ一人親方になりました。
まだ完全な独立までとは行きませんが親方のトラックを
自分のトラックが買えるまで貸していただけることになり、
一人で請負という形で一人親方になりました。

当時はバブル絶頂期。
何をやっても当たると言われていた時代だけに、
親方が請け負いきれない仕事を順調にこなしていました。
母も父の助手席に乗り建築資材をトラックに積み込む作業や、
書類作成を二人で行っていました。
毎日休む暇もなく働きまくっていました。

僕たち姉弟は婆ちゃんが面倒を見てくれていました。
婆ちゃんは親父の兄弟姉妹に地元に残るように言われたのですが、
はかせ家の長男は親父だから僕たち姉弟の面倒を見て、
知らない土地で働き始める親父と母を支えると心に決めて、
僕たちについてきてくれました。

小学生に上がる頃はもう自分のトラックも中古でしたが、
譲ってもらい自分で切り開いたお客様も増え順風に仕事は
はかどっていました。

小学3年生頃になると家を建てるかという話になったのですが、
婆ちゃんは家を建てるなら地元に帰って建てて欲しいと思って
いたので親父は今更地元に帰れるはずもない。
と賃貸物件の今よりも便利な所に移り住むことになりました。

ボロボロのアパートから鉄筋のマンションに引っ越しました。
ファミコンも小1の頃に買ってもらい、
朝から独身の仕事仲間が我が家に集まって親父と母が、
朝食をふるまって仕事の時間まで仕事仲間のお兄ちゃん達が
ファミコン大会をしていたのを思い出します。

小4位になって親父と母が家に居る機会が多くなってきました。
今まで仕事をほとんど休まずやって来たから子供と過ごす時間を
作りたいと思って休んでるんだと思い、
部活が終わって家に帰ると親父と姉と僕と3人でキャッチボールを
してもらうのが楽しみでした。

母も親父の仕事の手伝いから離れパートで近くの工場に働きに出ていました。
この頃から親父が家に居る日が明らかに多くなってきていました。

今思えばバブル崩壊の前兆だったのだと思います。
やることがないので家で本棚を作ったり、
仕事仲間と家で話し込む姿が多くみられるようになってきました。
話を聞いていると今まで仕事をくれていた親方が体調を崩し、
その間にライバルだった親方の会社に親会社が仕事を発注していたらしいのですが、仕事量も以前に比べて極端に減っていったそうです。

トラックを売って何か別の商売をやらんともたないと、
家族全員の前で親父は正直に言いました。
母も泣いていました。
せっかくここまでやってこれたのだから何とか続けて欲しい
と何度も母と婆ちゃんと親父で夜な夜な話していました。

しかし親父は銀行に借金してまで仕事をしたら、
前みたいにボロボロになってしまうから、
雇われにでもなって働くしかないとトラックを売り、
建築資材の仕事を辞めました。

親父は職安に行き何度も面接に行っては年齢を理由に内定を貰えずに貯金を食いつぶしていく月日が過ぎていきました。

親父は資格こそ持っていませんでしたが独立して仕事をしていたので、簿記など経理一般はできるので中小の企業の経理の仕事に就きたいと考えていたようですが時は既に遅くバブル崩壊の余波を喰らって、
リストラを行っている企業が多く年齢も40を超えた親父を雇ってくれる会社はありませんでした。

ある日建築資材の配達の仕事をしていた仲間が家に来て、
今住んでいる所から少し遠いけどまだバリバリやっている社長さんと
知り合いになって人を雇いたいと言っているがどうかね?
と話しに来ました。

親父は仕事があるならやるしかないと、
僕らに転校することになるけどいいか?
と聞かれましたが、嫌と言えるはずもありません。

小6の時に転校をはじめてしました。
転校先の友達は皆本当に親切に仲良くしてくれて今でも付き合いがあります。
親父はとにかく生活の為に更に休まずに働きまくりました。
請負なのでボーナスもないし、世間一般の工場勤務などの仕事場とは違い長期休暇もなく残業代もなく働いた分がお金になる仕事だったので、
仕事がない中それこそ仕事をしたくない若い仕事仲間から仕事を分けてもらって働いていました。

中一の時に仕事仲間が大型のトラックを買ってダンプの運転手に鞍替えをするとの事でトラックを買うのに保証人になって欲しいと奥さんと一緒に頼みにきていました。
親父は最初は渋っていましたが困った時はお互い様だから、
こっちも頼むことがあるかもしれないからよろしくと母の反対を押し切ってハンコを押しました。

その1年後です。忘れもしない夏休み前の7月。
僕は中学生になり2年生で野球部に入り先輩が引退したら、
レギュラー獲得が確実な状況で早く新人戦が来ないかと楽しみにしていた時でした。
朝早くから銀行の人が来て親父と母に何か説明をしていました。
母は泣き崩れ婆ちゃんも親戚に色々と電話をしていました。

トラックの保証人になった人が仕事がなくどこかに行ってしまった。
との事でした。
親父から説明を受けたのはまだトラックのカギは銀行に預けてあるから、
そのトラックを売って残った差額を俺が払う事になったとの事でした。

親父はめちゃくちゃ怒っていた。
裏切られたのもそうだけど逃げる前に相談に来なかった事が情けない。
と悔しそうに話していました。
銀行は父の親会社にもこの事を話し、なんと親会社にも弁済を求めてしまったのです。
当時は朝掛け夜掛けといって取り立ての法律はあいまいで、朝だろうが夜中だろうが普通に電話は鳴り続き、家に何人も銀行員が来て一括清算を求めに来ていました。
残りのトラックの支払いは高級外車1台分以上。
そりゃそうだろと思いました。

新参者がいきなり外国の超高級なダンプカーを購入して急に仕事が入ってくるはずがありません。
まずはどこかのグループに所属して仕事を少しずつ分けてもらい、
その中から少しずつ得意客様を作りその得意客様から紹介をしていただいて新規の得意客様を獲得するのが地域のルールでした。
これ見よがしにデコって親父がこんな改造費用まで入っていたのは聞いてないと、トラックをみてあきれ返っていました。

トラックを引き取りに来た買い取り業者はデコってある部分を取り外してもらってノーマルな状態にしてもらえればもっと高く買えると言われていたのですが、必要な家財道具を残して銀行は差し押さえをしていき競売に出して少しでも返済にあてると言って貯金から家具から僕たちの遊び道具でお金になるものを全てもっていってしまいました。
なので当然デコってある装飾品を取り外してもらうお金もなく、
かなり安い値段で買い取られていったのでした。

親父は不況下の中でも地道に稼働している工場の期間工になる為、
2回目の転校をすることになりました。
あまりも急な事でせっかく野球部のレギュラーになれるはずだったのに、
ギターを買ってもらって文化祭でバンドやるつもりだったのに…
ひどすぎると姉と泣きながら転校を受け入れました。

銀行員が差し押さえに来た時はギターとアンプは友達に貸していたので、
取られずに済みました。
このギターが後々の心の支えになるのですが…

とりあえずは1学期末まで学校は転校せずに夏休みの間に親父の新しい仕事先のある場所へ転居・転校という形になりました。
何故か友達に言うのも恥ずかしくてバンドのメンバーの2人には事実を話しました。
学期末まで知らない事にしていて欲しい事と、高校は絶対に一緒の所に入ってバンドやろうと約束をしました。

夏休みが始まり新しい転居先も決まり、父も期間工として雇われの身になって働く事が出来るようになりました。

次回は<やって来た反抗期。親父との対立。>
をつづります。
ご完読ありがとうございました。

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