親父キャンディー〜はかせ家歴史ヒストリー最終回〜

<やって来た反抗期。親父との対立。>
前回は中学2年生になり転校する所で終わりました。
今回は親父キヤンディー最終回です。

親父はある大企業の期間工として働き始めました。
母はスーパーでパートの仕事をし始めました。
僕と姉は新しい中学校での生活を始めました。

姉は中3という進路の面でも一番大切な時期に転校の余波を
喰らってしまったので行きたかった看護科がある高校の受験を
あきらめ転校以降はすっかり勉強にも受験にも関心を示さなくなりました。
僕は野球部に入りましたが既に新チームのレギュラーと補欠は決まっているとの事を通達されひたすら下級生と球拾いや道具の準備整備などをやっていました。
顧問の先生に一度でいいからテストをしてほしいと言ってみたのですが、やっぱり学校での暗黙のルールは転校生をいきなりレギュラーにすると父兄からの苦情が出るしイジメの対象にもなるからと聞き入れてもらえませんでした。
かなり大きな中学校だったので他の部活への転部は出来るか聞いたのですが先生も3年になるまで待ってくれと言うばかりで野球への情熱も覚めてしまったのです。

そして転校してから始まったイジメもありギターが生きる事への拠り所となりました。

両親は新しい仕事を始めて身体が慣れていかないようで、
湿布薬を体中に貼って仕事をしていました。
とにかく借りてる分のお金を返さなくてはいけない。
無我夢中だったと思います。

しかし僕たちはそんな両親を見て反発を覚えるようになってきました。
生活の面倒は婆ちゃんがほとんど見てくれて、
休みの日の後なんかは学校に行くと両親に遊びに連れて行ってもらった話や、友達同士で映画や買い物をしたという話に混ぜてもらうのですが、
今度一緒に行こうと誘われても家庭の財務状況を知っているので気軽に返事もできずにいました。

そうしている内に
はかせの家って貧乏なんじゃない?
貧乏って汚くない?
と陰口を聞こえるように言われ始め、教室や廊下などで人とすれ違う事があると、臭いと言われるようになりました。

そんないじめを受けていることを懸命に働いている両親に言えるはずもなく、ひたすら胸の中に貯めこんでいました。
両親はとにかく仕事について行く事がやっとだったんだなと今になっては理解できるのですが、当時はもう恨みの感情が出てきてしまっていました。

転校さえしていなければ・・・

そして引っ越して来てからも何となく両親も疲れてすぐに布団に入ってしまうのであまり話すこともなくなってしまいました。

そこから僕が30歳になるまで親父とは一切話すことがなくなりました。
母からは進路の事など親父と話すように言われたのですが、
いつもきまって言うのは「好きなようにしろ」だったので、
大事な事も母に言うのみで自分で判断していました。

イジメにあっていたので地元の高校にとても進学する気にはなれなかったので約束通り前の中学校のバンドのメンバーの行く高校を受験すると言い張り片道4時間以上かけて高校1年生の1学期まで通いました。
が、毎日最寄りの駅の始発に乗っても1限目に間に合わず途中にやっと学校にたどり着くという状態で高校からは6月終わりの時点で留年が決定したと言われました。
母からも通学費が高くこれ以上通わせられないと言われ、
高1の1学期末で中退の道を選びました。

それからは地元のスーパーでアルバイトをしながら、
バンド活動に精を出す日々が始まりました。
親父が胸部動脈瘤が破裂しかけてICUに入る30際の冬までは。

今では僕の2回の結婚とうつ病寛解に向けて一緒に生きてくれた事や、
昔カツオ船に乗っていた時の話など仲良く暮らしています。

少しでも多く無くした時間の穴埋めをして親孝行をしたいと願っています。
そして親父の夢である初孫を抱かせてあげるため日々精進しています。
親父の歯が全部なくなって歯だけは赤ちゃんみたいになっていますが。
うつ病になって初めて親のありがたみを身を染みて知る事になりました。
甘えてばかりはいられません今度は僕が養う番です。
とにかく親父!!歯医者さんへ行ってくれ!!
本人は虫歯にならないから経済的と言っていますが、
たぶんビビッているのだとおもいます(笑)

そんなお茶目になった親父をはじめ家族と仲良く暮らしてまいります!!
ご完読ありがとうございました!!