凶器を楽器に持ち替えよう運動 その6

さて前回の続きです。
色々な課題が降りかかってきたセミファイナルまでの道のりですが、当日を迎える事になりました。
ダイヤモンドホールのリハの時間までは時間があったので僕の地元の楽器屋さんで練習をする事になりました。
1曲勝負だってのでひたすらその1曲をクリック(メトロノーム)に合わせて練習していました。
最終形態はドラムにベースは合わせギターは歌に合わせ歌はベースの音をしっかり聴いて音程をキープするというギリギリにまで余計な事を削り落としたアレンジにしました。
最後にフェードアウトっぽく終わらせて再びフェードインをするという事をPAさんに頼るのではなく自分たちで行うのでPAさんにもあらかじめアレンジが変わったのでテレコで録音した音源を送ってフェードアウトしても進行は終わらせないで欲しいとお願いをしました。
本来ならばアウトなことかもしれませんがYAMAHAの担当の方に連絡を取った所、そっちのほうが分かりやすいからスタジオ音源で良いので送って欲しいと言われました。
さてスタジオ練習も終わりダイヤモンドホールに向かう事にしました。
電車の中では皆もう無言。
緊張しまくっていました。僕も喉が冬なのにカラカラに乾いてアクエリアスを1リットル程会場に着くまでは飲んでいました。
もうそのおかげで会場に着いてからトイレに行きたくて何度も往復する事になって、ドラマや漫画を見ているみたいになって凄く自分が自分を客観視できるようになっていました。
衣装も基本的には変えませんでしたが何故か<サイバー>というワードにハマってしまいその頃流行っていた、キャットアイだとかいう形の黄色のレンズのサングラスをかけていました。
普段僕は眼鏡をかけているのですがその上からサングラスをするというW眼鏡構造で出る事にしました。
メンバーからは落ちたらそれはそれで美味しいと行くことになり作戦はせいこうしました。
リハも滞りなく終わり後は本番を待つだけとういう状態になりました。
僕達はまだ16歳になったばかりで、周りの子達は20歳前の人達ばかりで年れマウントを取られたり、どこのライブハウスでやってんの?
とか聞かれたりりました。
おどおどしながら答えてると、いつも行っている楽器屋さんのお兄さんが来ているではありませんか!!
「どうしたんですか??」
と聞くと
「僕たちのバンドも準優勝だから出れたんだよ!!」
と教えてくれて凄く安心しました。

そしてとうとう本番!!
開会式が行われ出演バンドが呼ばれたらプラカードを持って会場へ行くという事でした。出演順とは逆に呼ばれるとの事だったのでテーマはク―ルに行こう!!
と言うことで1回この会場で優勝した事のあるテイで行こうと、要するに演じて行こうと決めて会場に出る事にしました。

見事成功!!
何とか存在感を見せて演奏を待つことにしました。
さぁ本番がやってきました!!
演奏はどうなったのか?
結果はどうなったのか?
続きは明日!!

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凶器を楽器に持ち替えよう運動 その5

さて前回は楽器店予選を通過した僕たちのバンドですがここで一波乱が起こります。
YAMAHAティーンズミュージックフェスの広報の方から自宅に電話があり予選の様子をラジオで流して良いかという許可を得る電話と、楽曲のセンスが他の予選会場の優勝バンドと比べても秀でているという素敵な評価をいただきました。
その中でY君の作った曲をダイヤモンドホールで行うセミファイナルで演奏してはどうか?
という提案をいただきバンドで話し合って決めさせてもらいます。
と返事をさせてもらいました。
今度はYAMAHAさんの音楽出版の方に電話相手が変わりアレンジなどのアドバイスを受けます。

当時はシャ乱Qがインディーズから破竹の勢いでメジャーシーンでCDの売り上げを伸ばしていたので僕が思うにその二番煎じ的なバンドを作ろうと思っていたようで、
もう少しダンサブルな感じで、振り付けも付けちゃおう!!
みたいなホントに軽いノリで言われたのでガキだと思って舐められてると思い、バンドのメンバーにはその提案を伝えますが振り付けとかは…
と話すと慌てたように、
ちょっと言ってみただけだからね!!
誰かプロモーターさんとか付いてる?
と聞かれたのでそれも誰かの力で優勝したみたいな言い方をされたので、
全楽曲自分達で作曲して衣装もモッズ系にしたのも自分たちのアイデアです。
と伝えました。

僕達はモッズファッションに影響されてスーツをヤンチャに着こなす為にモッズ専門のショップでアドバイスをもらったり来てみたら良い音楽などを教えてもらいました。

当時教えていただいてカッコいいなと思ったバンドは、
The JAM というU.Kのバンドでした。
IN THE CITY という曲が物凄くかっこよくて影響されて曲を作ったのですがバンドのメンバーからすぐにオマージュを超えてパクリになってる。
と指摘を受けて没にしたのも良い思い出です。

そしてバンド練習の日にYAMAHAのお二方から言われた事をそのままメンバーに伝えました。
振り付けについて僕はありえないと思っていたのですが、ほかのメンバーはBSヤングバトルというコンテストに出ていたシャ乱Qがぶっちぎりで優勝する姿を見て完全に影響されていました。

僕はパニックになり、
ちょい何でロックやるのにミュージカルみたいに振り付け付けるの?
凄いダサい!!
と言ったのですが、
でも振り付けとか付けて売れてるって事はやってみる価値はあるんじゃないの?
とドラムのM君にピシャリ!!と言われて言い返す言葉が無くなっていました。

とにかくセミファイナルに向けてY君の曲を再アレンジする事になりました。
コンテストで優勝した事でメンバーそれぞれに自我が芽生えていました。
とても良い事だと思ったのですが僕は1時間以上も電車に乗って練習に行かなければならないような所に住んでいて、ほかの3人は近所にすんでいました。
何もかもが事後報告になっていました。
僕が練習に行くとある程度アレンジまとたからこんな感じでギター弾いてと言われ喧嘩になりました。

「俺はスタジオミュージシャンでも雇われのギターリストでもないぞ!!
自分の考えたアレンジをまずは聴いて欲しい」
と言いますが弾いたアレンジは全て何か聴いた事あるって感じでパクリだと思われるよ?
と何度も却下されました。
…そうなんです。
The Jamのin the cityに影響されて作った曲から全て作っていく曲はパクリ認定されて行く事になり、この事が原因で段々とこのバンドから心が離れていく原因となります。

とにかくセミファイナルは僕以外のメンバーが考えたアレンジで挑むことになりました。
振り付けは何とか最小限で手を決まった所で上げる事だけを約束してもらいとうとうセミファイナル当日がやってまいります。

はたして僕たちのバンドの運命は??
メンバーとの絆は復活するのか?
次回をお楽しみください!!

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凶器を楽器に持ち替えよう運動 その4

では前回の続きです。
海外ではニルバーナの時代が終わりアメリカのグリーンディが台頭しメロコアブームに火が付き、西海岸のスケーター文化が更に巨大化してミクスチャーロックなどがそれぞれブームになっていました。
その中でも特異だったのが、
ハードコアのナパームデス(高速ハードコア)
ドーゥムメタルのカテドラル(超低速ハードコア)
ジャンル不明のアナルカントというバンドもCDを取り寄せて聴いていました。

さて自分たちのバンドですが12月に僕の地元の楽器屋さんで
YAMAHA主催の「ティーンズミュージックフェスティバル」という10代限定のコンテストがある事を知りまずは音楽業界にコネを作ろうという戦略で出演応募しました。
見事テープ審査を勝ち取り出演が決まりました。
そしてオリジナル3曲を持ち寄りLIVE審査を行い優勝したら、名古屋の有名なライブハウスのダイヤモンドホールセミファイナルの出演権をもらえるというものでした。
転校して愛知県でも有名なお寺の町から、自動車の町へ来た時は中学校で転校というだけでイジメを受けましたがこのコンテストに今までの人生全てを掛ける事にしました。

優勝してイジメた奴らを見返してやる。

中学3年生の時にバルセロナオリンピックで同い年の岩崎恭子さんが水泳で金メダルを取りました。
その時に、
「今まで生きてきた中で一番幸せです」
とインタビューで話した時に感動しました。
大人たちはまだ14年しか生きていないのにとあざ笑いました。
ですが人生を語るのに年齢は関係ないと思っています。
例えば今僕は40歳を超えましたが、オリンピックに出て世界で戦える実績を持った競技はありません。
しかし当時14歳の岩崎恭子さんは世界で戦える実績をもった水泳の平泳ぎという競技を得意としていました。
生まれもって速く泳げるコツを持っていたのかも知れません。
しかし世界で戦うという事は並大抵の努力と根性では叶わないと思うのです。
この言葉をあざ笑った大人の同調圧力に負けて成績不振に陥った岩崎恭子さんの姿を見て、大人達って汚い存在だと思うようになりました。

そして僕は「今まで生きてきた中で一番幸せです」と言う為に、バンド練習を頑張り引っ張りました。

そしてコンテスト当日。
お寺の町の同級生が電車に乗って応援しに来てくれました。
その中に僕の好きな人がいました。
お互い別々の小学校から同じ中学校に入り、初めてのオリエンテーションという泊りの合宿で話すようになり壁を一切作る事もなく接してくれた女の子が観に来てくれてテンションが上がりまくりました。

自信をもって仕上げた3曲を全力で演奏しました。
その結果。
優勝しました!!

初めてのLIVEで、初めてのオリジナル、曲初めてのコンテストで優勝をかっさらってきました!!
急いで皆で僕の家に帰り優勝を祝いコーラで乾杯をしました。

もういじめに遭った事とかどうでもよくて、とにかく今この瞬間を楽しんだ奴が輝ける事をLIVE会場にいた皆、応援しに来てくれた仲間に知ってもらう事が出来ました。

その日の夜は嬉しくて一人ギターを弾きながらダイアモンドホールでの勝負の曲をどれにするかを決めていました。
勝負はまだまだ続くので気は抜きませんでした。

続く…
果たしてダイアモンドホールでのセミファイナルの結果はどの曲を選んだのか?
お楽しみに!!

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凶器を楽器に持ち替えよう運動 その3

前回は暴走族を脱退した同級生からの電話。
「バンド組もうよ!!」
約束をすっかり忘れていた僕なのであります。

その電話があった後すぐにXjapanのコピーバンドをやっている同級生に
コピーバンドじゃなくて、オリジナル曲を作って新しいバンドをやる」
と電話をかけて脱退を告げました。
この時にあまりにも突然の出来事に他のメンバーに怒られました。
ですが個人情報を晒さないギリギリの表現で事の経緯を説明して理解してもらえました。

「暴走族抜けてバンドやって更生したいと言っている友達の手助けをしたい。音楽がみんなを平和にする証をみせるから〇〇君のバンドもこのまま続けて一緒にライブしよまい」
そう言ったのを覚えている。
殴られるかなと思いましたが、
「はかせがやりたい音楽を聞かせて欲しいから最初のライブはこっちでやって」
とありがたい言葉をもらって円満脱退しました。

そしてオリジナルバンドをいざ組むことになりました。
すでにM君(暴走族を脱退した友人をこれからこう呼びます)は、
僕がギター、Y君をヴォーカル、D君をベースにM君はドラムという布陣を作ってくれていました。
Y君もM君も曲を作ることが出来たので僕も初めてのオリジナル曲をM君の家で録音しました。

3コードにAメロとサビにCメロと簡単な作りでした。
ビートルズの「Love me do」という曲のオマージュとしてメロディから作りました。

それから作詞作曲の面白さに取りつかれひたすら曲を作り詩を書き続けました。
当時影響を受けたのはジョンレノンの「イマジン」や
ビートルズの「Let it be」のような聖書に出てくるようなシンプルな言葉に美しいメロディを乗せる事を意識して曲を書きました。

谷川俊太郎さんの詩集を読みあさり、
ビートルズとジョンレノンのソロになってからの曲の詩を読んでは似たような言葉を選び詩を構築していきました。

`60s~`70sの時代のロックミュージックの再構築をテーマに僕は曲を書きました。
Y君はミスチルが好きだったのでその影響を。
M君はザ・ブームが好きだったのでその影響を受けた曲を書いて次々にアレンジをかけて仕上げていきました。

その時は16歳皆高校1年生でした。
その時の音楽の時代背景は邦楽はミスチルスピッツ小沢健二コーネリアスといった渋谷系が流行り出していました。
僕が影響を受けた日本人ギタリストの車谷浩司氏はSPIRAL LIFEというユニットを石田ショーキチ氏と組み活動を始めていました3枚目のアルバムが出た頃だと思います。
外国では中3の冬、カートコバーンが頭を銃で撃ちぬいて自殺するというセンセーショナルな事件が起こりました。
当時バンドやろうぜ!!という雑誌とプレイヤーという雑誌を購読していてニルバーナというバンドにカートコバーンがいるのを知っていましたが何となくこの人自殺するなと虫の知らせみたいなものをインタビュー記事を読みながら感じていました。
しばらくはニルバーナロスが続きましたが、
アメリカのグリーンデイが「ドゥーキー」というアルバムを引っ提げてバスケットケースというとてもアッパーな明るい曲を出し、ニルバーナのセールス記録を破り、一気にメロコアブームがやってきます。
その頃から日本のハイスタやブラフマンというバンドの存在を知る事になり以後の作曲生活に大きな影響を受ける事になります。
続く…

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凶器を楽器に持ち替えよう運動 連載02回目

転校先で気の合った友達とは高校生になってからも付き合いは続いていた。
ある日行きつけの楽器屋さんでアルバイトでもないのに売り物のギターを綺麗に拭いていた時に、地元の友達が
「はかせって今バンドやってる?」
と聞かれて
「やってないよ探してるけど」
友達は満面の笑顔で
「今同じ高校の子たちとXのコピーバンドやってるから一緒にやらない?」
「う~んXか~。もっとパンクなバンドがやりたいもんねぇ」
と僕が言うと友達は
「次のバンドが見つかるまでのヘルプでいいから、毎回女の子をもう一人のギターの子が連れてくるんだよ!!」
速攻返事をした。
「次のバンドが決まるまでお願いします!!」
早速どの曲をコピーしているか聴いて楽譜とCDを買い、
ひたすら練習の日々となった。
一緒にスタジオに入るのは2週間後だった。
ヴァンヘイレンの曲を一通り弾ける僕にとってはXの曲は、早弾きの16音符が多いけど弾けるのに1週間もかからなかった。
ただもう一人のギターがいるというので負けてたまるかと思い、
「この曲もやりたいんだけど」
と言いたいが為に1っ曲多く覚えてみたりもした。

当時はHIDEがソロ活動を本格的に始めだした頃でHIDEの曲もやりたいと思い、楽譜とCDを買ってまたまた弾き込んで4曲くらいしかなかったそのバンドのレパートリーを10曲位一気に増やしてしまう荒業を要求したのだが、
メンバーのモチベーションが良く見事についてきてくれて、
来てくれる女の子にリクエストまでしてもらえるようになった。

…なのだが一つだけとても重要な欠点があった。
ヴォーカルがいない!!
とうまさかの展開にとにかくバンドの顔なんだから、イケメンかチャラくて歌が上手い奴を条件に探していたのだがホントにクソみたいなヴォーカルしかいなくて僕は何となくそのバンドに飽きてきてしまった。

そして夏休みが終わる10日くらい前に電話が僕宛てにかかってきた。
電話に出ると、
「はかせ!!俺だけど!!」
相手は数週間前暴走族を辞めるだ辞めないだで僕に相談をしてきた友達だった。
「はかせ、もう暴走族も抜けて警察にも抜けた事を言いに行って何にもしがらみが無くなったよ!!ありがとうね!!」
僕も嬉しくなって、
「良かったじゃん!!おめでとう!!高校は辞めちゃいかんよ!!」
と言うと
「辞めるわけないじゃん!!はかせこの前約束しとったバンド組もうよ!!」
僕はビックリしてしまっていた。
すっかりその約束の事を忘れてしまっていたのだ。

続く…

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凶器を楽器に持ち替えよう運動 連載01回目

私がギターを買ってもらって音楽をはじめてもうすぐ30年が経ちます。
小学校6年生の秋に同級生にビートルズを教えてもらい、ひたすら聴きまくっていた小学校6年生。
レンタルビデオ屋さんでビデオも借りて動いてるビートルズを見て聴きました。
あのドキドキ感は今でも鮮明に覚えています。

そして楽器屋さんのギターの前で動かなかった僕に両親が見かねて買ってくれたエレキギター
持った瞬間に無敵になれた気がしました。
これでジョンにもポールにもジョージにもなれる!!
BAND組んでビートルズみたいになるんだ!!
と同級生を勧誘しまくってBANDを組みました。

気分はもちろんジョンレノン。
ビートルズと言えば僕の中では圧倒的にジョンレノンに惹かれていました。
解散してからのソロアルバムも中学校1年生の時に全部聴きました。

ビートルズになりたくてもまずはオリジナル曲を作らないと話になりません。

中学校を卒業して高校受験の時に中学の時に組んでたBANDのドラマーと約束して一緒の高校に入って新しいベースとボーカルを見つけようと約束をして同じ高校を受験しました。

二人とも第一志望の学校を滑り…
滑り止めの高校に合格して高校生活が始まったのです。

…高校生活は何というか、
ヤンキー文化の終末期みたいな時代でしたので、
学校に行くとビーバップハイスクールで観たような長ランにボンタン。
髪はリーゼントかアイパーの先輩や同級生の多いこと…

当時はフェミニンブームでソフトパンクというものが流行り出してきていました。
武田真治さんと、いしだ壱成さんがモデルで出てる雑誌は高校の友人と回し読みをしていました。
高校は山の中なのですが地元の子はほとんどおらず都会から滑り止めで入ったヤンキーが多い中でも、
都会の子はいち早くフェミニンブームに乗っかって、
標準ズボンの先を切りボンタンとは逆に
ラッパズボンに仕立て上げ、
髪型はマッシュルームカットみたいな感じの子が多くなってきました。

ドラムの子も見事に音楽よりもファッションにはまってしまい、
いつの日かもう喋らなくもなっていました。

私は高校でBANDを組んで色々なコンテストに出てとにかく音楽業界のコネを少しでも早く作りたいと計画していましたが見事に計画は失敗。
高校に居る意味は無い!!
少しでも多くギターの練習をして曲を作って飯の種にするんだ!!
と勢いで高校を辞め親の仕事を手伝いながらギターの練習に明け暮れていました。

中学校2年生の時に転校をしていたので高校に一緒に行った友達は転校する前の学校の友達でした。
高校にもいかず親の仕事の手伝いをしてお小遣いをもらい全てを音楽の機材に使い親を呆れさせていました。
(今もほぼ変わりませんが(;'∀'))
高校に通っていた同級生とは規模の違う機材を揃えていました。

高校を辞める時には転校する前の友達のほとんどが暴走族に入り人殺し以外のほとんどの悪さをしてる状況だったので、
早くこれは縁を切らねば巻き込まれてしまうと瞬時に察知したので高校を辞めたと同時に連絡も断ちました。

そして家の近くに楽器屋さんがある事を知って入り浸っていました。
その楽器屋さんには高校を卒業したばかりの3コ上のお兄さんが、
ライトミュージック担当として就職しており今聴いてるBANDやお互いに学んだテクニックを披露しあうなどとても良好な関係を築いていました。
楽器屋のお兄さんもギターリストでしたが、既にライブハウスにも出演しながら僕と同じく音楽業界にコネを作ろうと頑張っていました。

<ギターを買って貰ってからの話>
ビートルズが好きだけど初めて買ったCDはヴァンヘイレンのファーストCDという事をお兄さん伝えると、はかせは変態的な感性を持った子供だと言われました。
ヴァンヘイレンのCDを買ったきっかけはギターの教則本にこれだけは聴いておいたほうが良いというBANDのCDを5枚ほど乗せていて、
転校する前に住んでいた所にあった楽器屋さんで、
たまたまジャケットの絵を覚えていたのと、BANDスコア(楽譜)も売っていたので買ったという偶然の産物だったわけですが、
ヴァンヘイレンといえばライトハンド奏法というギターを弾かずにタッピングとプリングオフとトリルという奏法を合わせてキーボードのようにゴキゲンなサウンドを出してくれる技を開発した偉大なギタリストなのです。中学生の頃にはヴァンヘイレンのファーストアルバムの全曲を弾けてしまっていたので、
同級生を超え先輩にまでギターの上手い奴がいるという話が伝わっていました。

中学2年生で転校してからは学校に行く気力を無くして家で暇だったので、
ヴァンヘイレンのCDを聴きまくりスコアを見ながら少しずつ練習していって、いつの間にか全曲弾けるようになっていました。

転校した学校ではB'zやXが流行っており話していても面白くなかったので余計に学校には行きませんでした。

もうすでに僕の読んでいる雑誌にオルタナティブミュージックの情報が入ってきており、ニルバーナやパールジャムといった最先端の洋楽を聴いていたので日本の音楽シーンには興味は全くありませんでした。

その頃からでしょうか今までテクニックを重視していたギター生活に別れを告げてどれだけ
<その瞬間に感情を表現する音を出せるか>
を基準にした練習というよりも自分とギターと精神の中で戦うという表現が最も合っているギターの練習スタイルに変わっていきました。

ギターと対話するという言い方の方が近いかもしれません。
その頃からジミヘンドリックスやエリッククラプトンの組んでいた、
クリームというBANDを聴いてサイケデリックという言葉を使った音の表現方法を知りひたすら聴きまくりました。

ヴァンヘイレンも言っている事なのですが、
一流の楽器奏者はあらゆるジャンルの音楽の一流のリスナーでもある。

後で知った事なのですが正にこの言葉をそのまま生活に当てはめ、
音楽を聴きながらまだ譜面が発売されていないBANDの新譜と曲を聴いて耳で音を覚えてギターの指盤上で探していく、<耳コピ>という技術を覚えました。

そして中学生の頃に読んでいた雑誌<バンドやろうぜ!!>と
<Player>という雑誌からギターリストやバンドマンの思考をインタビュー記事を読んで知り、生き方をマネする。
今の流行りの言葉でいう<アウトプット>をしていました。

そして中学3年生の冬に人生初LIVEを行いました。
ティーンズミュージックフェスティバルというYAMAHAさん主催の10代だけのミュージックコンテストに初参加しました。

曲はベンチャーズBAKUというバンドの、
インディーズ時代の曲を演奏しました。
マヂで全然緊張していて覚えていないのですが感覚だけは覚えています。

<ここが僕の居るべき場所だ>
という感覚です。

まだメンバー全員中学3年生なので高校生や大学生のバンドを観て更に絶対ビッグになってやる!!と心に決めて家に帰ったのを覚えています。

話が高校生と中学生で前後して申し訳ありません…

そして高校生になりバンド活動を頑張ろうとした矢先に起こったのが上記に書いてある事なのです。

…が、

高校を辞めて友達が夏休みの頃に1本の電話が入ります。

「はかせ助けて…」
転校する前の友達で暴走族に入って僕らを勧誘してきた友達からでした。
「シ〇ナー吸ってるのが親にバレて警察と精神病院に連れていかれる…
 今からそっちに行くから匿ってほしい。」

呂律も回らない声で助けを求めてきました。
とは言っても転校してきた所はまぁまぁ遠い場所でしたので、
電車の乗り継ぎ方法と大体の電車賃を教えて到着の連絡が来るのを待ちました。
そして2時間後家の電話が鳴り友達が駅に着いたとの事で原チャリに乗って迎えに行きました。

もうシ〇ナーのにおいが凄くて、来ている服も夏だから良かったようなものの、ほとんど着の身着のまま。
めちゃくちゃ混乱していたのでジュースを一緒に買って飲みながら我が家に向かいました。
家についてまず状況を詳しく聞きました。

本人曰く
・暴走族を抜けようとしているのだがシ〇ナーを買い続けろと言われた。
・暴走族を抜ける時はお金を払わないといけない。
・このまま帰ると親に警察に連れて行くと言われ精神病院に入院させると
 言われて怖くてはかせに連絡してしばらく隠れさせてもらおうとした。

以上の内容でした。
その友達は中学3年生の時に一緒にバンドコンテストに出た事もあったので何気なく、

「暴走族は何があっても辞めな。落ち着いたらバンドやろう。
 ビートルみたいなバンド」

僕に言えるのはそれしかありませんでした。
ただやりたくもない暴走族に入って無駄な高校生活を送るよりは、
一緒にバンドやれたらやってスターになろうよ!!
って感じだった。

友達の家に電話をして今我が家に居る事と、
「疲れちゃって昼寝してるのであと1時間ぐらいしたら電車に乗せるので、
 到着時間頃に駅に迎えに来てくれませんか?それとバンド僕たち組むので
 早い所、暴走族を辞めさせてやってください。」

友達の母親は涙声で
「死んでやるって出て行ったから、心配で心配で…」
とオロオロするばかりでした。

友達も起きてきたので
「親に連絡しといたから。警察にも病院にも行かないって。
 ただ暴走族を辞めるのには全力で協力してくださいって約束もしたから」

友達は不安そうに
「ホントにバンド組もうね。名前も決めよう。」

というので、
ビートルズの出身地のあの有名な港町をバンド名にしようと決めて駅まで送りました。

名残惜しそうにお互い改札の前で私は
「良い報告待ってるね!!」
と言って電車を見送りました。

その数か月後、僕は自分のした約束を忘れて軟派な友達とXjapanのコピーバンドをやっていました。
だってスタジオに毎回違う女の子が観に来るらしくて一発でバンドに入れてもらいましたwww
だってモテたいっていうのがバンドをやる最大のモチベーションでしたから。

…という訳で <凶器を楽器に持ち替えよう運動>
この話かなり長くなりそうなので連載型にします!!

次回をお楽しみに!!
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なぜ僕は弾き語りをするのか

去年から始めた弾き語りについて書こうと思います。始めたきっかけは<自分の殻を破りたい>という思いからでした。この気持ちは10代からバンド活動を始めてバンドを組んだ時のリーダーの言葉です。


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このバンドに入りたいと思ったきかっけはとにかくボーカルのN氏がずば抜けて歌が上手い。
楽曲の完成度が高いという事がきっかけになりました。

近くのLIVEハウスでLIVEをやるので観に来て!!
と言われチケット購入してLIVEを観に行きました。

そのLIVEでギターが抜けるというMCがあり、
「チャンスだ!!」
と思った僕はLIVEが終わるなり直ぐに行きつけの楽器屋さんに行き、
N氏の連絡先を知っているであろう人達に連絡先を聞きまくりました。

要約電話番号をゲットして自分の思いを伝えるべく留守電に、
「以前から弾き語りやソロ活動を知っている時から一緒にバンドをしたいと思っていました。ギターリストが抜けるという事なので是非バンドに入れてていただきたく電話をさせてもらいました。お返事待っています。」
とあたかも好きな人に告白するような内容の伝言を入れました。

N氏との出会いは16歳の時に<24時間テレビ 愛は地球を救う>のボランティア活動に参加していた時でした。
僕たちは野外の建物の2階で募金の呼びかけをしていました。
そして吹き抜けの1階ではアマチュアミュージシャンのコンテストが行われていました。

僕もギターを小学生の頃から始めてバンドを組んだこともあり、当時椎名林檎さんも発掘された<ティーンズミュージックフェスティバル>に出場していました。
予選を勝ち抜き、愛知県のファイナル大会まで出場した経験がありましたが、メンバーとのいざこざがありバンドを脱退して次のバンドを探している最中でした。

その時に地元のデパートの外れで弾き語りをしているN氏に会いました。
それが初コンタクトでした。
「なんで弾き語りやってるんですか?バンド組めばいいのに…」
僕は疑問を持って聞きました。
N氏は
「バンドも組んでるけどまだLIVEで緊張してしまうから、自分の殻を破る為に弾き語りをしてるんだよ」
と教えてもらいました。

その言葉に僕は目から鱗が落ちました。
そして弾き語りの様子を見せてもらいました。
まずは誰もが知っている曲を歌い通りがかりの人に脚を止めてもらう。
歌もルックスもそれなりに良いN氏はすぐに10人程のお客さんを集めて喋り始めました。
内容は自分のバンドの宣伝でした。
そしてすかさずオリジナル曲を1曲弾き語りをして見せました。

そこからどんどんお客さんとの距離を縮めるかのごとく、
「誰か好きなバンドや歌があれば歌える曲があれば歌うのでリクエストお願いします。」
とリクエストをもらっていました。

ミスチルが好きな女性から何でもいいので歌ってほしいとリクエストがあり、さらっと歌ってしまいました。
それからどんどんお客さんは立ち止まり総勢50人ほどの人だかりが出来ていました。

とにかく衝撃的でした。
そして2時間程歌うとノートを取り出して観に来てくれていたお客さんに
「LIVE観に来てくれる気のある人はメアドか住所か電話番号を書いてくれませんか?」
と慣れた手つきでお客さんの情報を聞き出してファンを作っていました。

僕は感動してしまい。
「かっこいいです。バンド入れてもらえませんか?」
とお願いしましたが、
「今ギター居るからゴメン。」
といわれたのが初コンタクトでした。

それから1年程立ち24時間テレビのボランティアに参加している時に、
コンテストにソロで出場しているN氏を見つけたのです。
相変わらず歌は上手いのですが持って行ったオリジナルカラオケを何故かカセットテープに入れて持って行った為にチューニングがずれまくっていました。

25年前はMDやカセットテープが主流でソロの方で音源を持っている方はほとんどがMDに入れて持って行ったそうですがN氏はMDのデッキを持っていなかったので音源カラオケをカセットテープに入れてコンテストに持って行ったのです。
カセットテープの弱点は再生するデッキによってチューニングが狂ってしまう事でした。
N氏はコンテストで使うカセットデッキなんだからチューニングなんて狂うような安物は使わないだろうと思ったのだそうですが結果見事にチューニングがずれて審査委員にボロクソ言われていました。

それを見て僕はめちゃめちゃ笑い転げてN氏の所に行きました。
「残念でしたね!!」
と言うと
「ホントやわぁ。今回の曲自信あったんやけどなぁ…」
とぼやいていました。

それが本当にまともにコミュニケーションが取れた時でした。
そして冒頭にあるようにLIVEを観に行きギターが抜けてしまうというのでチャンスを逃すまいと、速攻に電話を掛けて留守電に伝言を残し連絡を待ちました。

3日後に電話がありオーディションをしたいからLIVEで配った無料テープをコピーしてくるのとオアシスの曲とイエモンの曲をコピーして来てくれと電話がありました。

当時は携帯電話が要約普及しだした頃で通話内容をあらかじめ決めておき必要最小限の言葉で伝えなくてはならなかったのを覚えています。

そしてオーディションも無事クリアしてLIVEを色々やって行こうと僕が提案して活動の幅を広げました。
そしてお客さんへの宣伝の為の弾き語りをギターの僕とN氏で行う事にしました。
思ったより集客は難しくN氏と頭を悩ませていました。

そこで再びあの<自分の殻を破る>という言葉を思い出して、自分たちから歩いている人たちに向かい話しかけて曲を聴いてもらう事を行動に移しました。
思いは的中してお客さんにチケットを買ってもらう事が出来たのです。

…そう全ての原点は20年以上前の弾き語りにあったのです。

今は父が慢性骨髄性白血病を患い介護離職中です。
その前から僕がうつ病を患っており安定した職に就けずにいました。
安定しない原因は人間関係すなわちコミュニケーション能力の欠如。
医師にも適応能力が欠けてしまっているから自立支援事業所での訓練をすすめられ見学に行ったのですが、はるかに自分より症状の重い方ばかりで僕は一般就労で働く事を望みました。
が、やっとついたアミューズメントセンターの職を腰痛の持病もあり退職してしまったのです。

父の介護を24時間家族と交代しながらやっていましたが段々と症状も良くなってきており<自分の殻を破る為>に弾き語りをスタートしたのです。
初心に帰る。
人生の再スタートだと決めて弾き語りをしています。
これからも時間が出来た時はどこかで弾き語りをしている。

父の病状も安定して復職活動も行いながら続けていきます。
こんな僕ですがよろしくお願い申し上げます。

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