凶器を楽器に持ち替えよう運動 その9

さてティーンズのファイナル大会は愛知県公会堂にて行われました。
ここはサクッと結果のみで
結果は何の賞も貰えずファイナル大会出場者という名を残すのみとなりました。

そこから今後の活動などをどうするか考えていました。
愛知県のロックシーンの中心は名古屋でした。
僕達は東三河のバンドです。
どちらかというと豊橋市や隣県の静岡県浜松市を中心に活動していかねばとタウンページをめくってはライブハウスの項目に目をやるのですが、
名古屋みたく定期的にライブを行っているライブハウスはなく貸しステージ的なライブハウスはありました。
そこでベースのD君が通っていたベース教室の先生が以前プロモーターをやっていたとの事で僕達のバンドをえらく気に入ってくれてライブの予定などは全てH氏に任せる事になりました。

ここから怒涛の勢いでライブ活動をして行く事になります。
とにかく月に2本はライブを入れてくれるので新曲作りが間に合わなくなってきており、毎回同じ曲順でらいぶをしていました。
当時はまだ16歳で高校生にチケットを売って見に来てもらうというパターンが出来上がりつつあったのですが、同時にメロコアを主とするバンドも一緒にライブに対バンとして出る事となりかなりの苦戦をしいられました。

メロコアバンドはオリジナルのクオリティも高く人気はうなぎのぼりでした。
僕達のバンドはというと燃え尽き症候群みたいな感じになっていて新曲もなかなかできずにH氏に2か月ライブ活動を休んで曲作りをしたい。
今後の方向性を考えたいと伝えました。
H氏からは
「俺は君たちの興行を仕事にしているから急にライブを減らすことはできない。半年先までもうハコを押さえてある」
と言われとにかく練習しながら新曲を作っていくという循環を作り出すことにしました。

その時にはもう完全に作詞作曲のイニシアチブはドラムのM君とボーカルのY君が取るようになっていました。
アレンジはベースのD君が考えて僕は練習場のM君の家に行って新曲の全体を聴いてこう弾いて、そこはこう弾いてみたいな感じで自分の考えたアレンジを入れる隙を与えてくれませんでした。
彼らはH氏に音楽理論を習っておりダイアトニックコード進行を自由自在に操り時には転調までも使ってくるかなり高度な曲を仕上げてくるようになりました。

僕の以降はテクニックバンドにはなりたくないのとシンプルで聴きやすいという彼らとは真逆の考えを持っていました。
テクニックに関してはそれぞれが楽曲の中で活かせれれば良いと思っていたのですがテクニックを使いたいがための楽曲になっており、かなり前衛的な曲に仕上がっていました。
例えるならビートルズの後期のホワイトアルバムのような…
そうして決定的な溝が出来ていくのが音を立てるかの如くわかるようになりました。

次回は決定的な溝と凶器を楽器に持ち替えよう運動を考え始めるです。

ご完読ありがとうございました!!

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